1503.孔子⑭衛での日々

1503.孔子⑭衛での日々:2011/5/3(火) 午後 1:29作成分再掲。

・・(後記)このあたり煩瑣でくどく、第三者には面白くもないと思いますが、こういう細かな読みがあって、ついに、いわゆる「論語」は孔子死後志士派系と学際派系別々にあったものが始皇帝焚書坑儒漢帝国儒教国教化の中で、(志士派や墨子色が消されて、学際派色の濃いト書きもなくおとなしい)現伝「論語」に一本化されていった、そんな代物との驚きの仮説に行き着きました。懐かしさもありその経緯全文以下に再掲し記録にとどめますが、うるさい向きは適宜読み飛ばしください。

QT

承前。

孔子の衛での日々
いやあ~完全に嵌ってしまって、・・趣味の世界です。

司馬遷朱子も吉川さん貝塚さんも孔祥林さんもネットのブロガーの方々も、孔子の行程を追うことはされても、衛での日々までは書き残されてはいません。きっと孔子だから小説にされているかたも多いだろうと思いますが小説の類は見切れておらず、・・以下はもう殆ど楽しい遊び、とご理解ください(笑い)。

(1)友人達
すでに、衛の人物評はいくつか紹介しました(記事1498)

1)老後の述懐で、衛の霊公は「無道」な人だったといいながら、支えていたのは、「仲叔圉」の外交、「祝鴕」の宗廟、「王孫賈」の軍事、と孔子はいっています。付き合いもあったし、評価もしていた、のしょう。

2)「南子」については、孔子は、馬車での霊公との痴話ぶりを見聞きし、色っぽいなるほど、とは思ったに違いありませんが、それ以上は何も残していません。南子お相手の、宋の公子「宋朝」については、美男だが弁舌さえ大したことはない、なぜあんな男に南子はほれたのだろう、というところでしょう。

何度もでてくる、親孔子の衛大夫「蘧伯玉」(蘧白玉、きょはくぎょく)については論語に記事があります。
3)

「蘧伯玉使人於孔子孔子與之坐而問焉。曰、夫子何爲。對曰、夫子欲寡其過而未能也。使者出。子曰、使乎使乎。」(論語憲問の26、#359)
(試訳=蘧伯玉が孔子に使いをよこした。孔子は使いを座らせて「蘧さんはどうですか?」と尋ねた。使いが答えて「あるじは間違いがないようにといつも気を配っていますがこれでよく出来たということはまずいわない方です」と。使いが帰った後、孔子は「(蘧さんも大したものだが、さすが)使いもたいしたものだ」と。)

同、朱子注には、「蘧伯玉、行年50にして49年の非を知る」(淮南子)、「蘧伯玉、行年60にして60たび、化した」(荘子)を引き、その「徳を進める功」「篤実」「光輝」を孔子は尊敬した、とあります。

また史記「仲尼弟子列伝」は「孔子の厳事(厳しく仕える)するところ、周の老子・衛の蘧伯玉・斉の晏平仲・楚の老莱子・鄭の子産・魯の孟公綽」とあり、そのひとり。

当時、80歳台の高齢で大夫の長老格、孔子の衛での寄寓先、です。

淮南子荘子をみるなら、朱子のいうように「行儀よく」理解するだけでいいものかどうか?
論語自身別にこうも書いています。

「子曰、直哉史魚、邦有道如矢、邦無道如矢。君子哉?伯玉、邦有道則仕、邦無道則可卷而懷之。」(論語衛霊公の6、#385)
(試訳=まっすぐだなあ、子魚は、国に道が行われようとなかろうと矢のように走る。引き換えて蘧伯玉は道が行われていれば(まっすぐに)仕えるが、道がないなら巻き込んで懐に入れてしまう。)

「子魚」は蘧伯玉の抜擢と某佞臣の放逐を霊公に諌言しこれが出来ないなら自分の葬儀は要らないといって死んだ人、霊公はこれに従って蘧伯玉がある・・だから子魚は蘧の先輩格。

・・孔子はこの話を知っている、知って言っている。・・どちらも誉めている。そして、衛では?伯玉と斉の晏平仲(晏嬰)と並べて厳事する、といっている。

・・生の孔子朱子孔子ほど単純ではない。
4)匡の難救援にでてくる「甯武子」も論語にあります。

「子曰。甯武子。邦有道則知、邦無道則愚。其知可及也、其愚不可及也。」(論語公冶長篇の20、#113)
(試訳=甯武子は平時には知恵、戦乱にはバカ、に徹した。その知恵はわかるが、バカぶりは及びもつかない。)

朱子注も吉川さん以下も、春秋昔話シリーズの一とみて、孔子の100年前の衛の大夫甯愈のこととされますが、・・前の句と並べて読めば、蘧伯玉と対になっている、また孔子子路顔回を愚ということがある、だから、

⇒単純に司馬遷世家を信じて、孔子と同世代で、孔子を難から助けてくれた、知恵者武人、とも考えられます。・・でしょ?
⇒いずれにしても、
ここで孔子が名を上げている人たちが、孔子を理解しバックアップしてくれたのでしょう・・わずかな情報ですが、認め合ってうまく?やっていた雰囲気はでています。・・なら、孔子に碌な役職も与えないままそれを許した霊公は、相当老練な人ではなかったか?(霊公は当時40歳代と吉川さんは南子に引きずられてもあるでしょう、書かかれますが、印象としてはもっと上?)だから
そういう意味では、晩年になって孔子が本当に霊公を「無道」といったとしたら、やはり口だけではなく性格・心もよくない人ではないか、と疑われます。・・むしろ霊公無道評*は後の二流儒者のわかりやすさを狙っての決めつけ、ではないか。・・そうなると、これは論語の本文ですから重大で、一事が万事、ここだけでなく「論語」の読み方もよほど慎重でなければなりません(笑い)。    

*憲問篇や衛霊公篇などいずれも下10篇にでてくる話です・・古来仁斎指摘どおり、下10篇はやはり相当怪しい、のです。かといって上10篇は本当に?大丈夫か?(笑い)。

5)「太子蒯聵(かいかい)?」や「輒=出公」ら霊公の後継者たちについては、具体的には何も言っていない、ようです(何か気づけば修正します・・)。吉川さんはここも「自然な」長男支持説ですが、冉有・子貢の伯夷叔斉論議孔子の局外中立論、と読んだことは既述通りです。

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(2)弟子たち
1)孔門10哲・六芸に秀でるもの72・門弟3000人、といいますから、孔子の門弟は多かった、

・・この孔子57~59歳の衛でどれほどの弟子がいたものか。話十分の一、としても数百人はいたのではないか。
2)

「子曰、從我於陳蔡者、皆不及門也。徳行、顏淵・閔子騫冉伯牛・仲弓。言語、宰我・子貢。政事、冉有・季路。文學、子游・子夏。」(論語先進篇の2、#256)
(試訳)

孔子(晩年の弁でしょう)、陳蔡に随行した弟子達は(いまやばらばらで)皆門籍にいない(なつかしい)。

徳行は顏淵(=顔回、賢明貧乏愛弟子)・閔子騫(=びんしけん、出世嫌いの親孝行)・冉伯牛(ぜん、孔子のあと中都の宰)・仲弓(人君たりうる)。

言語(弁舌)は宰我(昼寝要領小理屈)・子貢(衛の人・外交金儲け魯衛の宰相)。

政事は冉有(能吏現実派)・季路(=子路、正直勇猛・孔子を叱る・衛孔家家宰蒲宰・斬り死に)。

文學(=学問)は子游(礼楽・牛刀、魯武の宰)・子夏(衛の人・六芸長寿多弟子)。
⇒この十哲は直弟子で、陳蔡・楚への旅についていっているから、その前のこの衛では重きをなして孔子周辺にいたでしょう。

論語は悪口も含め弟子への言及が大変多い、孔子は弟子や人間を大事にした人・・でしょう。


⇒なんやかや言っていても、霊公は孔子らを粟六万斗(=400石)で遊ばせており、弟子達もこの時期まだ若くそのおかげで勉強切磋琢磨できた、と考えます。

 

3)大事なところ。

戦乱の世であっても、孔子の教えは、組織人・官僚・軍人として管理され管理する、まあ中間管理層の哲学、としては極めて有効で、大夫の家宰や城邑の長、としては使い勝手がよく、就職にも有利だった、とみます。だから、案外弟子も増えて多くなる、孔子も案外コネ作りもうまかった・・とみます。

で、
このあと、陳蔡の旅から帰り、孔子は魯に引っ込みます、弟子達も諦め堰を切ったように、魯衛その他の大夫クラス家宰や城邑長に就職していくのは確かです(例えば、子魯は衛の孔家の家宰となり蒲の長となる)・・だがこの時期の衛では孔子に期待し、永久就職は弟子達もせず、勉強研鑽しあう、力を蓄える。従い就職はバイトどまりだったのではないか。そして、これを支えていたのは霊公の孔子への禄=粟六万斗、とみます。見た限り資料上で、明らかに就職していたと確認できるのは、子貢。

子貢はこの時期、魯にいて大夫なみ・魯公のアドバイザー的仕事についています。つまり、

「魯定公15年春、?公と魯公の会談で礼法が二人ともおかしく死ぬと予言し言い当てている」
子貢はそういう立場でそういう場にいた、しかも、孔子
「これでまた子貢は調子に乗るだろうと苦言を呈している」(前495年、春秋左伝)。

子貢のような気の利いた高弟はこの時期すでに衛どころか魯で就職もし自活もしていたのでしょうが・・
(つづく)

UNQT