1502.孔子⑭衛に戻る

1502.孔子⑭衛に戻る :2011/5/3(火) 午前 10:35作成分歳計。

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承前。

⑧衛の霊公は誤解を解いて、侘びの気持ちもあったのでしょう、孔子一行を衛の郊外で迎え喜んだ、といいます。前495年のこと、としておきます。
「世家」の出迎えの記事です。morobiiさんのブログからです。
http://blogs.yahoo.co.jp/mirobii/17815566.html
「衛靈公聞孔子來喜郊迎。問曰蒲可伐乎、對曰可、靈公曰吾大夫以為不可、云々」の部分です。(試訳)

衛霊公は孔子が来たことを聞き、喜び、郊外まで出迎えた。

霊公問うて曰く「蒲は討つべきか?」と。

孔子対(こた)えて曰く「討つべきです」と。

霊公曰く「吾の大夫(達)は討つべきではないとする。今、蒲は(西から)晋(南から)楚が待ち構えているところ、(だから不用意に)衛がこれ(蒲)を討つのは不可では無いのか?」と。

孔子曰く「(蒲はもともと衛の土地であり、衛のために)蒲の男子は死の志が有り、婦人は西河を守る志が有る。吾(々)が討つべき者は(反霊公派の)四、五人に過ぎない。」と。

衛霊公曰く「よろしい」と。然るに蒲を討たなかった。
⇒霊公は郊外まで出迎え喜んだ、と世家はいいます。??の件で疑ったことも詫びたくて敬意を表したのでしょう。?白玉ら親孔子の大夫たちが事前にとりなしていた、ともみます。

孔子が苦労して通過してきた「蒲」のことを霊公は早速聞いたようです。

⇒ここでの孔子は「蒲」の住民は衛のために死ぬ志があるのだから衛は戦うべき、やっつける必要があるのは反霊公派の公叔戌ら4~5人、といっています。実際通過してきたからの発言で、それなりに孔子は正しいのでしょう。

⇒その言葉をよし、としながらも、・・霊公や大夫たちは晋と楚の出方が読みきれず、でしょう・・結局は動かなかったようです。

⇒そして、この後、世家はこう続けます。
衛霊公は老(お)いて政治を怠(おこた)り、孔子を用いなかった。

孔子はため息をついて嘆(なげ)いて曰く「いやしくも我(われ)を用いる者が有れば、一年のみあればよい。三年有れば成(な)せる」と。

孔子は行き去った。

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⇒似たような、霊公と孔子のちぐはぐなやり取りはもう一箇所あります。少し後で別件でしょう。こちらは「世家」も「論語」も取り上げます。

「衛靈公問陳於孔子孔子對曰、俎豆之事則嘗聞之矣。軍旅之事未之學也。明日遂行。・・」(論語衛霊公篇の1、#380)
(試訳=霊公が陣(=陳)のことを孔子に聞いた。孔子こたえて曰く「礼のこと(俎豆そとう=礼の祭具)は聞いたことはありますが、軍事(軍旅)は学んだことはありません。そして翌日旅立った。)
⇒こちらはいかにも、そっけないものです・・霊公から心はもう離れているとみるべきでしょう。
⇒なお、念のため、ここでも

論語」の記事採用の偏向(笑い)
を指摘しておきます。
論語」は前者を採用せず、後者だけです。偶然とは思いません。

前者も悪い話ではありません(住民本意の軍事を強調していると十分読める)が、ここは孔子が好戦的にみえるからでしょうか、「論語」はこれを採用しません。

なお、前者の最後、三年云々に相当する部分は「論語」にあります。
「子曰、苟有用我者、朞月而已可也。三年有成。」(論語子路篇の10、#313)
(試訳=いやしくも(=苟、かりにも)自分を使ってくれるなら、一年(=朞月、きげつ)で成果を上げてみせる、三年もあれば十分だ。(それなのにだれも自分を使ってくれない・・))

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現伝「論語」は特に、「世家」も、この辺は、霊公と孔子は相性が悪かった・・これを強調し、孔子は使われず、その翌日にでも衛を去った、ように書きます。しかし、それは原資料がすでにそうなっていただけで(儒家の霊公暗愚説による汚染)・・、

 

孔子は実際にはしばらく衛にいた、とみます。どうでしょう、霊公に敬意を表して霊公が亡くなる、前493年の夏、礼のひと孔子としては10月の葬儀が終わるまで、2年~2年半、衛に滞在した
・・とみます。

孔子は自ら言うとおり碌な役職につかなかったのは事実でしょうが、衛や衛の大夫らについては「論語」にも多いし、また、門弟達は衛や魯で就職もしていた節、もある、新たに弟子も取ったでしょう。

後の儒家の決め付けにもかかわらず、人の使い方ひとつみても霊公は決して暗愚ではない、孔子も敬意を受け高禄のまま遊ばせていた・・。また当時の逼り来る戦乱のなかですが、衛国内は安定平和だった、とみます。

孔子にとっては平和な時期のひとつだったのではないか。

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⑩「論語」の情報を主に、孔子の「衛」での日々を再構成しつつ、そしてなぜに再び衛をはなれて、陳や楚にむかうのか、孔子の気持ちの動きを推理追体験してみましょう。・・楽しいことです(笑い)
(つづく)

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