1501.孔子⑭蒲の遭難

1501.孔子⑭蒲の遭難 :2011/5/2(月) 午後 1:25作成分再掲

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承前。

⑥蒲での遭難は、晋行きを諦めて、衛に帰る途中でのはなし、と見ます。
⇒「孔子の蒲での遭難」は「世家」はのちの3年間の陳滞在からの帰還時というがそうならもう衛の霊公は死んでいます、時制が合いません。

⇒仏肸(ひつきつ)か趙簡子かいずれでも(笑い)自分を買ってくれるならと思って晋に向かったがそれぞれの理由でやめて、黄河の水を見て、孔子が「晋」行きを諦めて「衛」に帰還するときのこと、とすると話がすべて符合します。

 

「蒲での遭難」。
⇒「世家」から引用、morobiiさんのブログから、です、
http://blogs.yahoo.co.jp/mirobii/17815566.html
「過蒲會公叔氏以蒲畔蒲人止孔子。弟子有公良孺者以私車五乘從孔子云々」の部分です。

「蒲を通り過ぎた。ちょうどその時、公叔氏が蒲を以って叛(そむ)き、蒲人は孔子を止(と)めた。弟子に公良孺といいう者が有り、自分の車五台を以って孔子に従った。」

「その人と為(な)りは背丈が高く賢く、勇力有り、謂った、曰く「吾(われ)むかし、孔子に従い匡で難に遇(あ)い、今又(また)ここで難に遇(あ)う。運命なるのみ。吾(われ)は孔子とともに再び難を受け、いっそ闘(たたか)いて死にます」と。

「闘(たたか)うこと甚(はなは)だはげしかった。蒲人は懼(おそ)れ、孔子に謂った、いわく「まことに衛におもむくことなければ、吾(われ)はなんじを出そう」と。これ(蒲人)と盟約し、孔子を東門に出した。」

孔子はついに衛におもむいた。子貢曰く「盟約にそむくべきですか?」と。孔子曰く「強要(きょうよう)された盟約なり、神(かみ)は聞き入れない」と。

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⇒公叔氏が「蒲」によって反乱(=畔)を起していた、といいます。前記事冒頭「春秋」前496年春には公叔戌(こうしゅくじゅ)が反霊公で追放、とあり、この勢力が、交通要衝の(「匡」のすぐ隣の)「蒲」を占拠していた、と考えられます。解放の条件として「衛」に行くな、ということは、反衛勢力だった。・・西に行くときの「匡」は親霊公勢力、帰りの「蒲」は反霊公勢力だった、とよみます。

⇒世家でも、孔子はこの後「衛」に戻り、霊公と話しています(蒲の反乱を何とかしたい、名案はないか、と)ので、霊公が死ぬ前493年以前、であることは間違いありません。「匡」と「蒲」は近いので別の勢力が抑えていたとも考えにくく、反霊公勢力が、わずかの間にこの地域を押さえた、とみます。

 

既述のように、孔子一行が、晋に向かい仏肸も趙簡子もやめて黄河から折り返してきただけ、とすれば、前495年ころ、とみていい・・(後述*、「晋」には行かなかったが、このとき孔子らは「周」へいって資料を集め、鼓琴を習ってきた、とracは想像していますので、もう少しあとでもいい・・)

⇒なお、
この「蒲の遭難」も「論語」は一切採用していない伝承です・・なぜか?

1)孔子の弟子、公良孺という勇者が「甚だしく闘った」・・防衛のためとはいえ「暴力はまずい」、とでも思ったのか?

2)脅迫の下とはいえ、孔子が平気で「約束違反」している、からか?

3)しかも「神不聴」と「神」という言葉を使っている、孔子は語らぬはずの怪力乱神を短い記事で、2~3つも肯定している、からか?
いずれにせよ理由は分かりませんが、要するにこういう「論語」の(情報選別からくる)制約・限界、が気になる・・逆に論語がオミットした部分も「論語」を読むときには注意すべき、と思うのです。

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晋行きの可能性を失った、孔子一行は、「衛」へ帰ることを選択します。

1)孔子が「衛」を出奔したのは、(太子??との関係を)霊公に疑われたためで、あった。もともと「誤解」だった。

2)仏肸にせよ趙簡子にせよ、「晋」行きは、やめた。

3)おそらく、趙簡子と衛魯斉との緊張も高まり、匡や蒲での通り、旅には著しい「危険」が付きまとった・・
⑦そこで、?白玉らの親孔子の良心的な大夫らに、衛霊公へのとりなしを頼み、?白玉らが動き、霊公も誤解を解き、孔子一行の帰国を認める、のだとみます。これが、前495年か494年です・・
⇒だから、匡の遭難のあとも、蒲の遭難のあとも、衛に帰ってきて?白玉のうちに世話になる、という世家の文章(ダブって見える)に意味があるのです。つまり、現実には、蒲の後の一回だけ、霊公へのとりなしを頼んでうまくいったから、?白玉に世話になった、のです。
以上、匡と蒲の遭難は晋往復のとき、あるいは、晋を目指したのは陳往きの前、という説は日本にはないようですが、孔子末裔という孔祥林さん本は「まあ」基本この説です、孔家2500年中国ご本家の伝承の方が正しかろう、と思います。

 

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*以下はどうしても気になるので、おまけメモ、です。(笑い)
このとき、

孔子一行は晋行きはあきらめたが、西に向かったついでに、周の故地を訪問したのではないか、
と直感しています(笑い、これこそ全くのrac奇説珍説ですから、ご注意!)
1)理由は殆ど唯一、「世家」での、仏肸の記事と趙簡子の記事の間(苦瓜と黄河の間)に、「楽器の話が二つ」挟まっている、しかも、場所は衛以外、だが、どことも書いていない、からなのです。

司馬遷の情報整理、には相当な信頼を置きます、基本「述べて作らず」(古伝を継承し創作はしない)、とみます。

・・司馬遷は、この一群の記事を、三年にわたる陳行きの後とし間違えた場所に挿入したが、極めて不自然とみながらも、もともとの資料がそうだった=楽器の記事がこの間に入っていたので、そのまま変更せずに、つなぎに若干言葉を補っただけでそのまま使った、と想像するのです。

となると、これは、「周」でのこと、と読める余地がでてくるのです。

2)楽器の話の、いい話で、周の故地での話しだと・・一層素晴らしい。(と期待するのです)

3)もう一つは、世家では冒頭に若いころに孔子は周へ行って老子に禮を尋ねたとある、そして老子に口は災いの元といわれて帰ってくる記事がある。老子に会ったなどは現在、史実としては考えがたく、あくまで道家の本家意識から来る伝承としてあったものを司馬遷が後段を気に入って採用したと読みました(既述)。・・ですが司馬遷のころには、孔子は周へ行ったことがある、という伝承が別にあったのではないか。

4)・・魯や衛や陳での疑似体験だけではあれだけ強固な孔子の禮楽意識は醸成されない(気がするのです)。とくに楽については周故地でいい先生に学び習った経験があった、・・と期待希望したい(笑い)。

5)確かに、固有名詞がでてきます、「楽師襄子」です。・・古来「衛」の楽師というがどれほど根拠があるのか、「襄子」などどこにでもありそうな名前で「周」の楽師だったと考えたい、・・のです。(笑い)
⇒この「楽」の話の続きは、記事1504へ。孔子の「原」儒教を知るためには(・・失われた「楽」ですから所詮「うかがい知る」程度しかできませんが)楽の話は大変重要で無視できない、という思いから、です。
(つづく)

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