1500.孔子⑬晋に向かう?

1500.孔子⑬晋に向かう? : 2011/5/1(日) 午後 1:13作成分再掲。

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孔子が、衛を出奔するのは、太子蒯聵(かいかい)の乱の後、前496年の秋、
と見ます。魯の定公14年、衛の霊公39年、です。

そして、まず「匡」に向かいます、陽虎と間違われるのもこのとき、のこと。そして、匡の隣の「蒲」での災難はこの直後、とみます。そして

このときの孔子の目的地は「晋」だった。「世家」は孔子の「晋」行きは「陳」訪問の後としますが、ここは違う。前後状況からみて、「衛」出奔後の孔子は、最初は「晋」行き、を意図した。これが最も合理的です。
当時の西の大国、晋国は下克上の内乱中、宰相の趙簡子が晋公家をおびやかし、趙簡子は同格の范氏や中行氏と交戦中、部下の仏肸(ひつきつ)は中牟(ちゅうぼう)で趙簡子を裏切り独立。その関係は、魯の公室と三桓家(特に季氏)と陽虎・公山不狃の関係と同じで、晋の趙簡子は季氏、仏?は陽虎、にあたります。

「春秋左伝」によれば・・前496年、

蒯聵の乱の直前に、晋の趙簡子の勢いを防ぐべく、斉景公・魯定公・衛霊公・宋公が会合して范氏と中行氏を救う相談をしています(定公14年、前496年の夏)。しかし、その効果なく、この年の冬になっても晋の趙簡子が有利に戦局を進めています。

一方、同年春には衛の公叔戌(こうしゅくじゅ)が霊公から追放され、魯に亡命。そんな中で、同年秋、衛の太子蒯聵の乱が発生、太子蒯聵は宋に亡命。彼ら衛の反霊公派は、晋(趙簡子)を頼って、衛の周辺部で抵抗反乱運動を開始していた。実は、魯の陽虎も斉から晋(趙簡子)に亡命先を切り替え(前501年)趙簡子の傘下にいます。

以上が、春秋(左伝)による、孔子の衛出奔当時の周辺国際情勢、です。


孔子一行は、匡や蒲、で戦乱に巻き込まれた・・と「世家」もいいます。ただし、ときはこの緊張が異常に高まるまさに、前496年冬から前495年、とみます。
匡や蒲はもともと衛の地ですが、ここから、西に向かえば(周や)晋、南に下れば宋・陳・曹・鄭・蔡や呉越や楚。交通物流軍事の要衝であり、さまざまな英雄達が通るところですが、
(春秋時代の同地地図、多謝) http://shibakyumei.web.fc2.com/map/mapDM.html
晋の趙簡子の勢力拡大で、公叔戌ら衛の反霊公勢力が、この時期抑えていた(孔祥林さん説)、あるいは抵抗運動を進め衛霊公と勢力争いをしていた、とみます。

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⇒少しややこしくなりますが、

「世家」の記事を元にしつつ、「春秋」による国際情勢を前提に、「再編集」します。
「世家」のひとつひとつの逸話や記事断片は嘘ではない、伝承を踏まえている・・竹簡ひとつひとつの記事です、これを並べ替えて司馬遷らは「史記」を編集するわけですが、平たく言えば、司馬遷らは「並べ替え」を間違えた、と思うのです。

これを再編集して、順番にいきます。
①蒯聵の乱の後に、霊公に蒯聵関与を疑われ、孔子は衛を離れます。世家がいうように衛に来て10ヵ月後ではなく、1年10ヶ月後、と見ます。

②この時点で、孔子は、中牟によって趙簡子に謀反した仏肸から誘いを受けていたし、また晋の趙簡子の勢力(竇鳴犢や舜華の賢大夫)からも誘いがあった、とみます。だから、迷いながらも、故国魯に戻ることは考えずに、西の晋にとりあえず向かった。仏肸も趙簡子も所謂「晋」にいたからです。

③ここで「匡」の遭難です。 「世家」の「孔子の匡の遭難」は悪役陽虎と孔子が似ていたため難にあったようにいうが、真相は以下であった、とみます。すなわち、

「匡」はこの時点では、衛の霊公の勢力下にあった、陽虎はすでに趙簡子の傘下ですがいつ攻撃してきてもいい緊迫情勢です。

そこへ陽虎に似た孔子の一行がやってきた。匡の守備軍は、本当に趙簡子一派の陽虎とおもい、あるいは衛から霊公に疑われ逃亡してきた孔子一行と知っていて、孔子らを、攻撃あるいは拘束した。

顔回が遅れてきたのは、孔子たちは霊公に疑われての夜逃げみたいなものだったとすれば、よくわからる。遅れて合流したのは顔回だけではなかったのでしょう。

孔子は、霊公からは誤解されていますが、甯武子や?白玉など衛の堅物大夫には中立であり誤解と分かってもらっている。・・そこで従者を衛の武官甯武子に送り援軍をもらったか、あるいは?白玉に動いてもらって衛の守備軍の誤解を解いてもらったか、して、解放され(但し、世家がいうように衛に戻ったのではなく)そのまま西へ晋に向かった。

これなら、ストーリ上での矛盾は「最小限」です(笑い)。


④仏肸から、招請を受けていたことは、「論語」にあります。孔子は明らかに仏肸のもとに往く気になっていますが、またまたまっすぐな子路が反対。孔子は自分はつるにぶら下がったまま人にも食べてもらえない苦瓜か、そうではない、人の役に立ちたい、とぶつぶついいますが、・・結果的には、仏肸のもとには往かなかったようです。

「仏肸召。子欲徃。子路曰、昔者由也聞諸夫子、曰、親於其身爲不善者、君子不入也。仏肸以中牟畔。子之徃也如之何。子曰、然。有是言也。不曰堅乎磨而不?、不曰白乎涅而不緇。吾豈匏瓜也哉、焉能繋而不食。」(論語陽貨篇の7、#441)
(試訳)

仏肸が(孔子一行を)招請していた。孔子は往く気でいた。

子路が言った「昔から孔子先生にはいろいろ教わっている(そのなかに)、自ら(=親)不善をなすものを君子は相手にすべき(=入)でない、(と、あります)。

仏肸は中牟にあって(趙簡子に)謀叛(=畔)しています。孔子先生はなぜ(そんな不善の仏肸のところへ)往こうとされのか。」

孔子が答えた。

「ああ確かにそういった。

しかし、こんなことわざもある。

本当に堅いとはいくら磨いても薄くならず、本当に白いとはいくら塗(=涅)っても黒(=緇)くならないものをいう。

自分は、つるにぶら下がっただけで、人に食べられることもない苦瓜(=匏瓜)でありたくはない、(人の役に立ちたいのだ)


⇒国際情勢が上の通りですから、この時点で、反趙簡子の、仏肸に助勢することは、郷土思いの孔子としては当然でしょう。斉・魯・衛の諸公を孔子は買わず嫌いかもしれませんが、魯・衛などにはいつ趙簡子が攻めてくるか分からない情勢です。孔子が、仏肸のもとに助勢に行くなら、斉景公・魯定公・衛霊公の同盟も歓迎する、ところです。だから、孔子が仏肸に「欲往」とはもっともなことなのです。

⇒ですが、ここでもまっすぐで、後の儒家たちに似て形式主義者でもある子路は、謀叛人の肩を持つとは何事か、と叱り・・孔子はぶら下がったままで役に立たない苦瓜にはなりたくないなどと、ぶつぶついいながらも、子路の忠告に、・・結果的には従ったようです。

孔子という人はふにゃふにゃしたところのあるひとで、・・この後も、とりあえず?西の周や晋を目指したらしい。


⑤そうして、黄河を前にして、趙簡子が竇鳴犢(とうめいとく)と舜華(しゅんか)の二人を殺したから、晋に行くのはやめる、と孔子は言い出します。この有名な場面は、世家にあります。「世家」、morobiiさんのブログご参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/mirobii/17833618.html
孔子既不得用於衛將西見趙簡子至於河而聞竇鳴犢舜華之死也臨河而嘆曰美哉水洋洋乎丘之不濟此命也夫、云々」(訳もmorobiiさん、によります、w/多謝)

孔子はすでに衛に用いられることを得ず、まさに西に趙簡子に見(まみ)えんとした。

河に至りて竇鳴犢、舜華の死を聞き、河に臨(のぞ)んで嘆(なげ)いて曰く「美しいかな、水は。洋洋(満ちあふれるさま)や。わたしがここを渡(わた)らぬは天命なるか」と。

子貢が小走りに進み出て曰く「敢えて問う、何を謂(い)ったのですか?」

孔子曰く「竇鳴犢、舜華は晋国の賢い大夫なり。趙簡子が未(ま)だ志(こころざし)を得ない時、このふたりを必要として後(のち)政治に従った。そのすでに志を得るに及び、これを殺して政治に従った。

わたしはこれを聞いた。

『胎(はら)をさいて夭(幼)を殺さば、麒麟(きりん 想像上のめでたい獣)は天地の祭りに来ない。沢(さわ)をなくし漁を涸(か)らせば、蛟龍(みずち)は陰気と陽気を合わさず。巣(す)をひっくりかえし、卵を毀(こわ)せば、鳳皇は飛ばず。』と。

何となれば、君子はそのなかまを傷つけることをいみきらう。それ、鳥獸の不義に於(お)いては猶(なお)これをいみきらうことをわきまえる。そして、況(いわん)や、わたしにおいては」と。
⇒ここも歌舞伎の名場面を見るようで、なんとも味わい深いのですが・・

孔子は、とにかく世の人に役立ちたい、という気持ちが強く、

反趙簡子で親斉魯衛の謀叛人仏肸(ひつきつ)についてもよかったし、

ここでは、趙簡子に「見」(まみ)えん、晋の趙簡子、に就くつもりもあった、

ということです。少なくとも、「世家」の司馬遷は、孔子は、趙簡子でも反趙簡子の仏肸、どちらでもよかったのだ、と理解しています、世家でもここは殆ど並んで書いてますから。

仏肸の場合は、子路の筋目論により(しかし孔子は苦瓜論ですから納得していない、と読みます)、

趙簡子の場合は、道を行う仲間を大事にしないから、そして、もうひとつ天命か、という諦め?(ここは孔子の実感でしょう)

と理由はちがうですが、・・結果的には、両方とも実現していません。


⇒しかし、です。・・大事な事が一つ。

⇒ここは、いかにも論語好みに見える名場面なのですが、「論語」は孔子が趙簡子の元に往こうとした、ことを記さない。巧妙にこの話を論語は外していることです。・・なぜか、たまたまか?

⇒趙簡子のところへ往こうとしたとは、「世家」のみならず「孔叢子」や「古論語」?にもあるらしく、古い伝承で、事実だった、ほうに賭けます(・・やや出来すぎの観もありますが、笑い)、・・だから、この記事を採用しない「論語」にある種「限界」を見るのです。つまり、

フニャフニャした面も強いのですが、「苦瓜で終わりたくない」と「論語」も認める「出世主義、・・というよりは、世と人のためになるなら、どちらでもいい自分を起用せよ」という、自負心の強い人、現実には無節操に見えてもあまり気にしない人が、孔子の実像だった、と思うのです。


⇒話がわき道ですが、もうひとつつづけます・・

現伝「論語」には孔子のこの「強さ」を認める「強さ」がない・・のです。無難な人たちの、だれが責任編集したかもわからない「一つ落つる代物」です。基本は、まあ孔子が馬鹿にした(それでも尊重し従ったらしいのが孔子の弱さなのですが、これまた、面白いのですが、別に後述)子路程度の形式主義者たちの編集、です。・・司馬遷の方が、孔子のこの強さ(時に無節操・フニャフニャにもみえる、そして多分傲慢さ、でもある)を積極的に認める点で、孔子を人としてより愛している、と見えるのです。
(つづく)

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