1499.孔子⑫衛には1年10ヶ月滞在?

1499.孔子⑫衛には1年10ヶ月滞在?:2011/5/1(日) 午前 9:42作成分再掲。

QT

この前後の「仮説」です。
(1)ここまでのレビューです。あくまで「世家」のストーリです。

魯の宰相代行を辞任して、孔子は衛に入る。

霊公から粟六万斗の禄を保証される。

がわずか10ヶ月後には霊公から一出一入を監視される羽目になり罪を恐れて匡に逃げる。

が匡では陽虎と間違えられて拘留される。

衛の甯武子のおかげで脱出し衛の?白玉のところに一度戻ってくる。

そして、霊公と宋朝の二夫を操る南子に会う。

馬車の中で南子と霊公の痴話話を聞いて徳のない色の話でがっかりして、もう一度衛を離れる決心をする・・。


(2)以上の話で、引っかかる点をもう一度整理すると・・

①霊公から監視される理由が不明、

②甯武子とか?白玉とか、衛でも堅物らしい大夫がいきなり出てくるのが不自然

③霊公に会いに来る名士とは必ず会うという南子にしては、孔子との面談はむしろ遅すぎる

④霊公と南子の馬車にまで同乗し密談を聞くのも①があった後というのはおかしい

⑤前496年秋、この前後の衛最大の政変=太子蒯聵の南子暗殺未遂と蒯聵の出奔、という左伝でさえ取り上げる事件、を無視するのはおかしい

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(3)rac仮説・・例によって奇説珍説ですから要注意・・以下が「真相」です(笑い)。

1)霊公は直前まで隣国宰相代行だった孔子に期待した、夾谷の外交実績や三桓抑圧・国内治績も評価し、辞任してきた理由も斉の賄賂女楽にメロメロの季桓子・魯定公を見限ったということなら問題もない・・豊かな衛で横ばい六万斗なら安い買い物と思っていた・・。

2)南子も早くに孔子とは面談もした・・南子も孔子を評価した・・

3)信頼して、二人だけの馬車にまで同乗させて、気を許し「太子蒯聵を外して可愛い末子郢(えい=子南)を後継者にしたい」と内密の話まで孔子に聞かせてしまった、あるいは意見を聞いた相談した、とみます。

4)孔子的には、嫌な話で、賛成しなかった。勝手な想像をすれば、郢はまだ幼いはずで、宋朝の胤であったかも知れず、いずれにせよ、南子の傀儡の意図まで孔子は読み取ったのかもしれない。

5)孔子は、これを自分が信頼する衛の幹部(甯武子や?白玉ら)に話したかもしれない、太子蒯聵にも話したかもしれない。・・意図的ではないが正直者孔子だから隠しておけずに、弟子達にもつい漏らした、噂が広がった。

6)孔子のところに監視がついたのはこういう事情・・冉有や子貢ら弟子たちが伯夷叔斉兄弟の話を持ち出して、孔子は蒯聵・郢兄弟のどちらに組するつもりかも聞きたがった、のもこの前後。

7)そして左伝では、宋の農民の「メス豚(南子)とオス豚(宋朝)」の揶揄の歌、を聞いて恥じて、太子蒯聵は南子暗殺を決意したと伝える。

 

・・じつはそうではなくむしろ、

孔子同乗の霊公南子の馬車での密談がすべての原因だった、孔子の「口」がきっかけで、先行して蒯聵は南子暗殺に踏み切る・・しかし蒯聵は敢え無く失敗。これが前496年=魯定公14年、衛霊公39年、の秋。

8)太子蒯聵ははじめ宋に、やがて晋に亡命、太子一派も当然逃亡追放粛清された。

9)この過程で、本当は中立で無実なのだが、孔子も罪を疑われたので、やむなく逃亡。・・そして匡での陽虎と間違われる事件。甯武子に援軍を出してもらって危機を脱却。・・しかし衛にはおそらく帰らず・・西の大国晋に向かうことを孔子は予定する、のだとみます。

10)以上、孔子が衛に入って10ヶ月ではなく、1年以上、1年10ヶ月かもしれません、この期間なら甯武子や?白玉などを、孔子として信頼できるとみてこの後も頼りにする衛国内人脈、を作るに十分な時間だ、とも思うのです。

(なお世家の司馬遷の魯暦理解は1年?ずれている可能性が高いようです)
以上、見た限り既存の情報と矛盾はありませんので(直上の1年のずれ位?!)・・もっともありそうな話と考えます。

なお、
いずれにせよ、衛は魯の隣国、この時期衛と魯・斉は比較的よく、子路の姉の嫁ぎ先も衛、お金儲けと外交と誠実の子貢も衛の人。(孔子より31歳年少というからこのとき25~6歳、春秋左伝には定公最後の年(定公15年、前495年)に魯で礼を語る姿があるから、孔子魯時代から弟子だったとみる)。

孔子がどれだけ衛や霊公の悪口を言おうとも、そして孔子はこの後、晋だ・楚だと動きますが実現はせず、現実にはこのあとも、衛は魯と同じく、孔門活動拠点となり続けていたようです。

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(4)さてさて、この仮説を前提とすると、司馬遷はなぜ「世家」にこの「事実」を克明に書かなかったか、など疑問が広がります。
1)司馬遷は魯暦内容を1年ほど後ろ倒しに信じていた可能性がひとつあります。
2)ですがそれよりも、司馬遷は、後の儒家のように孔子を聖人化してみず、尊敬し愛すべき人間とみていますから、南子とは何かあったかも、とさえ見ていた可能性もある。「南子の「帯玉の音が?然(きゅうぜん=玉の鳴る音)と鳴った。」と描写し、変な臨場感」を持たせたこの部分は、司馬遷の小説家的な語り、でしょう。(それ以外は、今の論語と違って状況説明がかなりあるバージョンもあってそれも司馬遷はみて書いている、とは、racは信じていますが・・)


もうひとつ。霊公と南子の馬車での密談をつい誰かに漏らして噂の発端となった、と司馬遷も、見た、のかもしれない。

孔子は「口は災いのもと」の人であった、とは、「世家」冒頭で、老子の餞の言葉として紹介し、司馬遷もそう思っていたから、そう記事にしたに違いないのですが、

・・この件は微妙でなんともいえない。
だから、この前後手元の情報をやや順不同に並べただけで、結果、大変よくわからないお話にしてしまった。・・司馬遷的には、まあ仕様がないか、なのでしょう。

(・・しかも、最初の衛脱出だけでなくこの後10年程度の遊説部分も、やや順不同で、わからず・・最初を間違った?から後、ずっと尾を引いている印象です。)


3)孔子は、後の儒家の多くのように蒯聵派ではなく、中立であった、とは冉有子貢らの井戸端論議を正確に読んで、司馬遷もそうは理解していた、と見ます。

4)後の儒家の多く、春秋左伝もそうですが、南子は淫乱なメス豚であり、霊公はそれゆえ暗愚、とされます。日本最後の儒者吉川幸次郎さんの筆もこの辺は不思議なほど、感情的です(笑い)。

5)司馬遷自身は、儒者ではないが、当時そろそろ孔子神聖化や儒家の潔癖な考え方は世に蔓延し始めていた・・正義感は強くても史記の公開は死後にさせた慎重な司馬遷ですから・・それでも、南子と何かあった、あるいは孔子の言葉・不注意が蒯聵の母親殺しの原因だった、では、お堅い儒家への刺激が強すぎる、と思った・・だから、何が原因で霊公に疑われたのか、等については敢えて沈黙した・・

 

真実は、以上こんなところではないでしょうか?
(つづく)

UNQT

後記2020年7月5日)こういう読みをracは重ねていって、後世儒家の言うような理屈理想ばかりの孔子像は間違いで、孔子とその一派(子路子貢たち志士派、別に曽子有子ら学際派在魯居残り組もいた、後者が前者を駆逐していく)はかなり政治的現実的行動をしたに違いない、現伝論語以下四書五経儒教教科書はすべてそういう事実を(司馬遷に前後して前漢時代に儒教が再編され)消した後の代物、と考えるようになりました。以下数十本、その立証説明、でもあります。