1488.『論語』を読む(3)『史記』「孔子世家」より

1488.『論語』を読む(3)『史記』「孔子世家」より:2011/4/19(火) 午後 0:05分再掲

QT

司馬遷は正義感は強いにしても全体は道家ぽい、リアリストと思っていたのですが、今回史記の「孔子世家」や「仲尼弟子列伝」「孟子荀卿列伝」を読み流して(平凡社版『史記中』野口定男さん訳、1969年)、

司馬遷は好悪や評価はともかく、孔子一門を大変愛していたのだろう、と感じました。

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朱子司馬遷論語のあのセリフひとつひとつがどういう状況下で語られたのか、大変気になった人たちだ、とも感じます・・朱子論語序説』は成功していませんが、司馬遷(あるいは親子・一派)の「孔子世家」では、さほどの数ではありませんが上手に論語の言葉がちりばめられており、なるほど、なのです。
孟子』の「徳の賊=郷原」のところでも感じたし、この「孔子世家」でも感じるのですが、・・論語の現伝する成句群、とは別に・・

どういう状況下での言葉であったか語るような文章が、孟子の時代はもちろん司馬遷の時代まではそこそこあった・・

斉の論語は文章が甚だ長いという何晏の証言もあり・・説明書きがあった版もあった・・何がしかの情報が漢代までは伝わっていた・・気がします。


しかし、三つの論語を合体していく過程で、

あるいは論語孔子儒教と共に、ある種権威化、していく過程で、そういう周辺情報を消していった。「子曰く」の「経」的本文、のみ、を孔子の言葉としてありがたがり、それ以外を、まあまずい文脈でのセリフがあったりもしたのでしょう、要するにドンドン消していった・・その気持ちも分からないではない、加工というより一方的削除を行った・・

だから現行論語でも、全く同じ成句がいくつかあってダブってそのままになっている・・おそらくもともとは状況が違っていた、だから同じ成句(=まあ得意の決め台詞です)、でも意味があった・・そういう事情とすれば、この問題も氷解する。


論語=成句集としては、だから、一般論・普遍論・抽象的示唆的であいまい、にもなる・・そして解釈では良いように良いように、立派なように立派なように、解釈していく。

・・そして、前記事、程子や朱子の時代にはすでに大変神聖視、まさに本中の本、バイブル(もとは本という意味ですから)と、するまでになった。

その後は、まあ官学化や大衆化や人の管理目的化・・ますます狭く硬く、そして理想的で麗しく解されることともなる・・

そういうものが『論語』なのでしょう。


司馬遷がいろいろ情報を集めて、その上で、孔子を列伝ではなく「世家」に分類した
ことも、もう少し考えていい(日本語では未見、中国語ならたくさんあるでしょう)。

扱いとしてはやはり「異例」に見えます。

・・世家とは、帝国本流にはならなかったが一時期あるいは地方では王侯その他かなりの勢力を得た人々とその一門の話です。・・孔子以外は、天子一族・割拠した王侯、しかも殆ど武力暴力支配の人々です。・・そんななかに孔子を放り込んだ・・どういうつもりだったのか?・・
(漢書以降は儒者は列伝の儒林篇に入るのが基本で・・史記だけがとったスタンスで以降引き継がれなかった?一点、でもあります。)

これも宿題。

う~ん。基本、司馬遷は、孔子一門を結構いいところまでいった、政治家・軍略家であった、と評価していた節もあります・・まあ孔子末裔が一家を成して司馬遷当時も一名門として(今でもそうらしいですが)残っていた、のも理由の一つかもしれません(周王朝家の一門も世家の中にある?ようで、これに近い気持ちでしょうか?)*。
*太史公自序には「周室既衰,?侯恣行。仲尼悼礼??崩,追脩??,以?王道,匡乱世反之於正,?其文辞,?天下制?法,垂六nx之??於後世。作孔子世家第十七。」とあり、乱世を正し真っ当な世に返すため天下および後世に礼法経書六芸をその文辞で伝えようとしたから、とはあるようです。 ・・いまひとつ得心いかない、のです。


・・考えながら、趣味的ですが、

司馬遷の「孔子世家」にしたがい、孔子の略伝と引用成句の成立状況、を見ることから始めます。

UNQT

(つづく)