1487.『論語』を読む(2)朱子の『論語序説』より

1487.『論語』を読む(2)朱子の『論語序説』より :2011/4/19(火) 午前 10:55作成分再録。

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朱子の『四書集注(しっちゅう)』の『論語集注』冒頭に、

論語序説』
という短文があります。

その大部分は、孔子の伝記です、
この部分は、司馬遷の『史記』「孔子世家」に負っているようですが「孔子世家」が大変いい出来なために、遥かに見劣りします・・。(後述)


朱子は『論語序説』の最後に何晏と程子を引いています、
その部分を転記します。
明徳出版社朱子学大系『四書集注』上、1974年、によります。要約文責rac、⇒racコメ)

何晏曰く「(前漢以来、論語は三種あった、といわれる。)「魯の論語」は20篇。「斉の論語」は別に問王・知道の2篇あり計22篇、章句は魯論よりすこぶる多い。「古論(語)」は孔氏の壁中から出たもので、堯曰を2篇に分けたもので21篇、篇次も魯論斉論と同じではなかった」と。

(⇒現伝論語は20篇499句、とされます。)

程子曰く「論語は、有子・曾子の門人によって成立した、だから、(孔子以外)この2子だけを、子と読んでいる」

(⇒ここもこうは断定できない、とされ、それぞれ何人もの門弟が関与編纂したはずの上記魯・斉・古書の三書が前漢代に適宜取捨合本されたもの、と今日ではいうらしい。)
⇒むしろ、

朱子が伝えたかったのは、以下の程子の言葉でしょう・・
短い『論語序説』の最後です。『孟子序説』の時と同様、多弁な朱子もこれ以上は自分の言葉は何も加えていません。ある意味、尽きている、と思ったのでしょう・・
程子(程頤)曰く「論語を読んでもなんとも思わない人もいる。読み終わった後、その中の1~2句を得て喜ぶ人もいる。読み終わって論語ファンになる人もいる。読み終わって狂喜乱舞するものさえいる。」程子曰く「今の人は書を本当に読むということを知らない。論語のような書を読んだあと、論語を読む前と何等変わらないとしたら、それは書を読むことを本当には知らない人である。」(「今人不会読書。如読論語。未読時是此等人。読了後又只是此等人。便是不曾(会)読。」⇒注:最後の「曾」は曾ではなく会と読みました・・)
程子曰く「自分は17,8才から論語を読んだ。当時既に文義は分かっているつもりであった。しかし、論語を読むこと、いよいよ久しくなって、意味深長と覚った。」

(つづく)

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