1489.「孔子世家」②若き日

1489.「孔子世家」②若き日2011/4/19(火) 午後 4:47作成分再掲。

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孔子の一生については、朱子以降(あるいは司馬遷以降の)発掘文献考古学資料等新発見もあるのでしょうが、ここでは、史記孔子世家」(と朱子の「論語序説」)によります。結論的に・・孔子の一生はどういうものだったのか(と司馬遷朱子らは思っていたのか)?
(1)決して良い生まれ(育ち)ではない。・・本当の師匠がいたわけでなく、基本は独学、だった。(・・司馬遷朱子老子に学んだ、というが、多分間違い、でしょう。後述)

(2)孔子の時代の魯国は大変な内紛状況・・斉公の介入があったり、三桓(季・孟・叔孫の魯の高家三勢力)が魯公を常時脅かしたり・・のなかで、孔子は沢山の弟子を持って、まあ私塾のボス、のような存在だった。

(3)その理想とするところは、論語がいうとおり、周王朝的秩序と六芸経書的正義であり、

だから、魯国にあっては魯公尊重と三桓ら諸大夫抑制、外交にあっては周朝的秩序回復でそのためには力のある大国をして天下を統一させたい、という気持ちはあった。

(4)後の儒家のように論だけで通るとか済ませるとかいうのではなく、手段としての、弟子等党派やお金の力や武力(戦争も人殺しも)をも肯定していた。

(5)それでもあくどい(笑い)権謀術策の類、は嫌って、・・正理正論を通したいタイプであった・・目的の為に手段を選ばず、というわけではなかった。・・明らかに?人や国を選んでいる、あるいは人に選ばれて?いる・・決して多数派ではありえないが、好き嫌いがはっきりあって、まあ通した・・。

(6)門弟3000人、六芸に秀でるもの72人、というから、それなりの規模と質の門弟はいた。

(7)ある時期から先は、たしかに経書の整理、後世に考え方を残すこと、に集中した。それでもなかなか枯れきっておらず・・生々しい印象は残る・・。

(8)政治行政的実績は、比較的細かいけれど・・確かにあった。・・自分だけでなく、弟子たちを派遣する、弟子たちに影響力を及ぼす、そして弟子たちによる行政的その他実績もそこそこあった、とみていい。・・俗にいわれるような?世間に疎い理想主義の負け組み(の一団、)では(必ずしも)ない(笑い)。

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とりあえずの仮説として上記印象。・・以下、検証しつつ少し細かく見ていきましょう・・


(1)孔子の生まれ育ちは決してよいとはいえない。
①「孔子世家」(以下「世家」と略します)は史記世家篇30本の中でも最も長いもののひとつです、孔子の一生についての司馬遷(一派)の関心の高さが分かります。

孔子の先祖は宋の人、といいます、父親の名はありますが顔氏の女と「野合」して孔子を生んだと「世家」は原文で明記します。ちゃんとした結婚でもないし妾をもてるような立場でもない、ということでしょう。

孔子は、母が死んでも父親の墓の場所も分からなかった、ともあります。

今で言えば、孔子は、私生児・シングルマザーの息子だった可能性が強い、のです。

ですから逆に、「孔子は幼いときから、礼器を並べて礼法の真似事をした」というのも分かるような何とも寂しさがあり、身に沁みるものがあります。

なお、この点、朱子の「論語序説」(以下「序説」)は、孔子は幼いときから礼法を好んだとは世家から引きますが、生まれについては明らかに意図的に無視しています・・司馬遷は変な孔子ドグマからいまだ自由だったが、・・朱子はドグマにどっぷり漬かっていた、と読んでいい、と思います。
孔子世家」原文https://ctext.org/shiji/kong-zi-shi-jia/zh 

 

孔子にとっての一生の敵役、陽虎(三桓の季氏の重臣です)、も早くに登場し、季氏が士を集めて饗応したとき、17歳の孔子も参加しますが、「季氏は士を招待したのだ、お前のような年少の卑しいものを饗応するわけではない」と追い返されます。
決して魯公の饗宴ではなく、三桓のひとりでしかない大夫季氏が諸侯の如く有力な士人を饗応した、さらにその家来に過ぎない(魯公には陪臣に過ぎない)陽虎が偉そうに仕切っている・・若き孔子は、世は乱れている、と思ったに違いありません。

こういう意味では、さすが司馬遷「世家」はリアルに(みえるように)描かれているのです。

 

孔子が若い時に周に赴いて老子から教えをもらった、とは「世家」も「序説」も言うところです。
孔子の身分では旅費その他も出なかったらしく、スポンサーとして三桓の孟氏が付いた、と「世家」はまず説明します。

孟氏の先代が遺言で、「孔子は宋公を補佐した正考父という聖人の後裔だ。今はたいしたことないが礼を尊んでいるし聖人の末には賢人が出るというから、孔子を師とせよ」と。・・それで、孟氏の息子達=懿子と南宮敬叔の兄弟の知遇、を孔子は得た、ようです。


おかげで魯国役人に就職でき、倉庫出納係りをやって料量に公平、家畜係をやって家畜を増やす、という実績を作り、・・魯公のスポンサーシップで、南宮敬叔と孔子は、周に勉強に行き老子の教えを得た・・とします。

面白いのは、別れの際の老子のことば、です。「世家」から引用します。
老子「餞に富貴なものは財物を贈るが、仁人は言葉を贈ると言うから、言葉を餞とする。・・聡明で事理が分かっていながら死ぬ様な目に遭うのは他人を誹謗するからだ、能弁で物事を分かっていながらその身を危うくするのは他人の悪を暴くからだ。人たるものは、我を持っていてはいけないし、人臣たるものは我を持っていてはいけない」と。

⇒このメッセージをどう読むか?

1)老子は、その生没の時代はいまでもよくわからないし、・・孔子老子の教えを受けたというのは、多分間違い(嘘)、でしょう。しかし、司馬遷も「述べて作らず」(古伝を後世に伝えるが勝手な創作はしない)の伝説の下にあると思うから、これは司馬遷が勝手につくったのではなく、儒教に対する道家の本家意識、がこういう伝承を生んで司馬遷当時にはすでにあった、とみます。

2)道家からみた孔子儒家)批判がここにある・・つまり、「理屈は分かっているが他人を批判したり悪を暴くから、孔子は死ぬような目に遭ったのだ。人は変な「我」などももたずに、自然に無理せず生きていくのがよいのに・・」ということ。

3)だから、孔子の実際の生き様は、・・後世の儒教から想像するような温和なものではなく、・・「人を非難し人の悪を暴き、身の危険も顧みず、自分の考え方(これを老子は「我」といっているのだが)を通した、という強いもの」と言う理解が・・当時の道家の理解としてあった。・・そして司馬遷も同感だったから、この伝承を意味あるものとして記録した・・のです。

4)注目すべきは、この直前に「孔子は斉で排斥され、宋・衛で放逐され、陳・蔡の間で苦しめられ、再び魯に戻った」(人である、という時制のよくわからぬ一文があえて挿入されている)とありますから、孔子の後の生き様を伝えつつ思い浮かべつつ、(孔子が若い時にいわれた)老子のこの餞を読め、ということになっています。

5)なお、朱子の「序説」ではこの老子の餞の逸話も無視し採用せず、「世家」に一言ある老子に「礼を問うた」との一句のみ、を採用して終えています。・・この問題についての朱子のポジショニング、も、ここに見えるのです。
(つづく)

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