1569.郷党篇(礼行集)

1569.郷党篇(礼行):2011/6/14(火) 午後 0:17作成分再掲。

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郷党篇第十、です。

学而篇第一は孔子の根本精神を写したものがオリジナルであるのに対し、「郷党篇は孔子の(日常・礼法上の)行動を録し」たもので「禮経および禮記と大同小異な文章が多い」(武内さんB本)。
また、武内さんらは、論語中、学而篇と郷党篇が最も古く、また、この「二篇で完全な孔子言行録」とされます。・・「行」の意味を日常礼法という意味に限定して、ですが、racもこれに従います。

魯や周の朝廷大子夫の儀礼習慣他、各国の様子も知っていた孔子たちです、これがよいきれいと見たしぐさ等を整理して記録した。これらが後に「周礼」「礼記」「儀礼」と拡大整備されていく。

 

郷党篇は、原漢文で見る必要はないと思いますので、半読み下し半現代語で↓。
#236 孔子は郷党(日常生活)では恂恂(ポツリポツリと)と話し口を聞けないもののようだった。が宗廟朝廷では便便(すらすら)と語った、ただ謹み深かった。(郷党10の1)

#237 朝廷で下の大夫と言う時には侃侃(かんかん=理屈だって強く)、上の大夫には誾誾(ぎんぎん=中正行儀よく諌めるように)、君主がいるときには??(しゅくせき=謹直でゆったりと)で與與(よよ=補佐する)であった。

#238 君主に命ぜられて擯客接待時には、様子は勃(ぼつ=きりっとし)、足は?(かく=きびきびし)。起立列席しているときは、手を左右に置き衣の前後は?(せん=ゆったり)。小走りに進むに翼を広げたようだった。賓客が退けば必ず復命して曰く、振り返らなくなるまでも見送りしました、と。

#239 公門に入るには、鞠躬(きくきゅう=前かがみ頭を下げ)で容れられざるがごとし。立つこと門の正面を避け、行くに閾(しきい)を履(ふ)まず。上位の人とすれ違う時は、様子は勃(きりっと)、足は?(きびきび)、その言は口が不自由であるかのように。斉(もすそ)を摂(かか)げて堂に升(のぼ)るには、鞠躬(前かがみで頭を下げ)、気を屏(ひそ)めて、息(いき)せざる者に似たり。出でて一等を下(くだ)れば、顔色を逞(はな)ち、怡怡(いい=のびのび)たり。階(きざはし)を没(つく)して趨(はし)り進むに、翼(つばさをひろげた)ようだった。その位に復(かえ)りては、??(謹直ゆったり)していた。

#240 圭(けい=祭玉器)を執るには鞠躬(きくきゅう=前かがみで頭を下げ)、重さに勝(た)えざるが如くす。圭を掲げるには揖(ゆう=拱手)の如くし、下げるには授くるが如くす。勃(きりっとし)とし戦(おのの)く色あり。足は??(しゅくしゅく=謹直で)循(したがう=引きずる)如し。享礼(きょうれい=公式行事宴会?)には容色有り。私覿(してき)には愉愉(ゆゆ=くだけて楽しそう)たり。

#241 君子は紺?(かんしゅう=紺色や栗色)の衣や襟や縁どりを身に着けず飾りとしない。紅紫は褻服(せつふく=平常着)としない。暑い時は袗(ひとえ)の??(ちげき=麻?)で、下着は見えてはいけない?。(寒い時には?)緇衣(しい=黒い服)には羔裘(こうきゅう=羊の毛皮)、素衣(そい=白い服)には麑裘(げいきゅう=鹿の毛皮)、黄衣には狐裘(こきゅう=狐の毛皮)を上着のコートとする。褻裘(せつきゅう=毛皮のコート)は丈は長く、右袂(うべい=右のたもと)を短くす。必ず寝衣は別にする、長さ一身有半。狐貉(こかく=狐や狸)の厚手のもので休息する。喪が過ぎればアクセサリを佩(お)びていい。帷裳(いしょう=礼服)以外は裳すそにひだはとらない。羔裘(こうきゅう=羊の皮衣)と玄冠(げんかん=黒い冠)は弔問に使わない。毎月一日には必ず朝服(ちょうふく=礼服正装)して君主に挨拶に行く。

#242 斎(さい=祀りやものいみ)するには必ず明衣(めいい)で麻布製、必ず食を変える、休息場所は必ず別に設ける。
#243 主食(コメ・粟など)は精穀したものがよく、膾(かい=なます)は細いのがいい。すえて味が変わった主食や、くずれた魚、ふるい肉は食べない。色の悪いものや悪臭のものは食わない。料理しそこなったものや時期はずれのものは食わない。割くこと正しくないもの、その醤(しょう=ソース)が適切でないものは食べない。肉は主食以上の量を食べない。ただ酒は量なし、乱に及ばず(=乱れてはだめ)。市場で売っている酒や脯(しほ=干し肉)は食べない。薑(きょう=はじかみ)をのけて肉だけ食べない。食べ過ぎない。祭りで分配された肉はその日のうちに処分する。祭肉は三日以内に、三日を超えたら食べない。食事時に喋らない。寝(いねては=ベッドに入ったあとは)喋らない。平常と同じ蔬食(そし=主食)菜羮(さいこう=野菜汁)瓜(か=果実)でも祭れば必ず斉如(せいじょ=恭しく丁寧に)粗末にしない。

#244 「席正しからざれば、坐せず。」 =座布団がきちんとしていなければ座らない。

⇒当時は、椅子ではなく日本流の座布団が主流だったらしい。歪んだり折れたりまっすぐになっていなかったり、・・ということで、ここは行儀作法上の話で他に含意はない、らしい。

#245 人々と飲酒宴会時には、杖(じょう)する者(=目上の老人)が帰ってから引き上げる。儺(だ=鬼やらい)が回ってきた時には正装して入り口の階段で起立して待つ。
#246 人を他邦(たほう)に訪問させるときは、再拝してこれを送る。康子が薬を饋(おく)ってくれた、拝してこれを受けたが「丘(きゅう)、いまだ達せず。あえて嘗(な)めず。」と申し上げた。

⇒後段は突然の季康子からの薬の話です・・丘(孔子)老年で魯の実力者季康子が好意でくれたのだろうが、贈り物をもらっても口にしないときの、礼にかなった言い訳の仕方、らしい。

 

#247 「廐(うまや)焚(や)けたり。子、朝(ちょう)より退く。曰く、人を傷(そこな)えるか、と。馬を問わず。」

⇒これも有名な句ですが、こんなところにあります。


#248 君主から食を賜う時には必ず席を正してまずこれを嘗(な=試食)む。君主から腥(せい=生肉)を賜う時は必ず煮炊きして先祖にも供える。君主から家畜を賜う時には必ずこれを畜う。君主の食事に侍(じ)する時は君主が(一箸とってなど)祭ればすぐに食べる。疾(しつ)ありて君主からお見舞いを受けたら東枕とし寝具の上に朝服と帯を揃える。君主が命じて召せば駕を俟たずして行く。

⇒なかほど、「侍食於君、君祭先飯」とは、先に食べろ、毒見せよ、ということ(吉川さん)。

#249 「太廟に入りて、事ごとに問う」 =宗廟に入ったときには事毎に質問せよ。

⇒#55の前段と同文。・・孔子が若い時魯の宗廟に入った時、そうだった。孔子は礼の物知りといいながらすべて人に聞いていた、と人は悪口を言った。これに対して孔子がこれこそ禮、と答えた、という逸話。

#250 朋友が死して帰する所が無ければ、(孔子)曰く「我が家で殯せよ=通夜しましょう」と。「朋友の饋(おくりもの)は、車馬と雖も、祭肉に非ざれば、拝せず(=親しいので当たり前に受け取った)」=朋友は財を通ずる義あり(鄭玄)らしい(吉川さん)。

#251 寝る時は死体みたいにならない。休息しているときに身づくろいしない。斉衰(しさい=祭り物忌み)する者にあえば親しい人でも身を正す。礼服を着た人と瞽者に会えば親しい人でも顔かたちを改める。喪服や喪章をつけた人には式(車上からの横棒に捕まって会釈のが式)する。盛饌(=もてなし)にあえば改まって挨拶する。迅雷風烈には必ず居ずまいを正す。

#252 馬車に乗る時には必ずまっすぐ立ってつり革を持つ。馬車の中では内顧(ないこ)せず(振り向かない)、早口で喋らず、指で方向を示すことをしない。

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⇒以下が

郷党篇18句の最後。意味不明、らしいです・・
これだけ、起しておきましょう。
#253 色斯舉矣、翔而後集。曰。山梁雌雉。時哉時哉。子路共之。三嗅而作。(郷党10の18)

(読み下し)

色あればここに挙がる、翔けてのち集まる。曰く、山梁の雌雉(しち)、時なるかな時なるかな、と。子路これを共にし、三たび嗅いで作る。

(宮崎さん注訳、要旨文責rac

前段は古詩との徂徠説に即し、「(雉の用心深さを歌い)気配を感じて舞い上がったが空を一回りして後、降り立った、とある。孔子はこれを説明して、雌雉に時期が大切だ、と教えた詩、であると。子路が雌雉の肉を供した時のもので、このあと、子路の好意を無にせぬため、三度かいだ後に席を立った。」(「作」を立ちたりき、と読まれる)。

(朱子、要旨文責rac)

・・人が機をみて審かに拠る所を選ぶのもこのようにすべき。・・この上下には必ず欠文あるのだろう。姑く聞く所を記して知者を待つことにする。

(吉川さん注訳、要旨文責rac)

大変難解・・ここまでと性質が違う。・・朱子は不完全な一条というが正直なところ。「・・孔子は複雑な気持ちで子路の差し出す雉の料理を受け取ったがもとより食べようとせず・・子路の好意をむげに退けもせず、皿の中の雉を三度かぐとそのまま立ち上がった。」以上大体古注・鄭玄の説・朱子のひとまずの解釈。朱子は別の説として「嗅」は誤字で子路の手をすり抜け三度羽ばたき逃げたとも。・・上論はこの謎のような章で終わっている。


rac超新説

「雉は気配があれば飛び去り様子を見てまた集まってくる。孔子は言った「山の雌雉よ、(飛ぶも戻るも食べられるも)大事なのはタイミングだぞ」と。子路がそこにいた。子路は三度かいだ後、料理を作った。」

rac的には、#252までが殆ど、ダメダメ、こうせよああせよ、なので、ここは、斉本系(孔門志士派)のいたずら?句が入っていた、と愉快に考えます。つまり、(通説のいう)腐っていたでなく、「子路が三度臭いをかいでああいい匂い、丁度食べころ。孔子先生、料理を作るから一緒に食べましょう。」*と解したい。・・「三嗅而作」であって「三嗅而去」ではないし、主語も孔子ではなく子路とみるのが妥当でしょう。

⇒諸先輩の生真面目深読みには殆ど噴出します(笑)、吉川さんの「性質が違う」はその通りで、斉魯両本の掛け合いという発想がないと理解できない+グルメの知識*が必要、というところ。朱子のいう「待たれた知者」というほどでもないが、rac注解が二千年来!の唯一の正解でしょう(笑)。

rac的にはこんな細部どうでもいいが、次の先進の第一句も同様のいたずら句?とみますのであわせご参照。斉本系が魯本系にチャチャを入れた部分の残骸がいまに残っているように見える、むしろこういう柔軟な視点、この仮説が重要、と思うのです。
ジビエでは、雉は雄より雌が旨い、また「フザンダージュ(faisandage)と呼ばれる熟成を経て、肉が腐りかける寸前の最高に旨味が出た時に食べる。」そうです。・・子路孔子も料理し時=タイミングにこだわるはずです。次記事ボトムご参照。
http://majin.myhome.cx/pot-au-feu/dataroom/foods/meats/gibier/gibier.html

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なおもう一点、学而篇「#3巧言令色、鮮矣仁。」は冒頭学而篇ではいかにも座りの悪い一句でしたが、ここ郷党篇では外交交渉マナーもいろいろ言っており、もともとはこのあたりにあった一句と考えます。参考まで。

 

(つづく)