1565.学而篇の有子3句

1565.学而篇の有子3句 : 2011/6/12(日) 午後 0:28作成分再掲。

QT

先を急ぎたい気持ちもあるのですが、論語を読もうなどと奇特な思いになることもめったにないでしょうし、また、学窓派を悪しざまに言うことは本意でない(伝統儒学は立派な世界遺産です)のですが、このままではあまりに孔子志士派が気の毒という思いの方が強く、入り口の大事な学而篇ですので、為念、書いておきます。

--------------------------------------------------------------------------------

有子曰。其爲人也孝弟、而好犯上者、鮮矣。不好犯上、而好作亂者、未之有也。君子務本。本立而道生、孝弟也者、其爲仁之本與。(学而1の2、#2)

(読み下し)

そのひととなりや孝弟にして上を犯すものは鮮(すくな)し。上を犯すを好まずして乱をなすを好むものは未だあらざるなり。君子は本を務む、本立ちて道を生ず、孝弟はそれ仁の本たるか

(通説的和訳)

ひととなりが孝悌(親を大事にし目上を敬う)で上を犯すものはまずいない。上を犯すことを好まないもので乱をなすことを好むものはかつていない。君子は根本を大事にする、根本がしっかりしていれば道が生まれる、孝悌こそが仁(最高美徳・人倫道徳)の根本といえよう。
⇒#6で孔子は、「弟子、入則孝、出則弟」以下=「若者は家庭では孝、社会では悌」以下の若者の有るべき姿をいい、#8と#14で君子を語り「君子」の最終目的を「就有道而正」とし、「好学」と主張しています。

⇒#2は、孔子のこの3本の句の「間違った」コピーで、有子なりの理解なのです。しかも「上下」とか「乱」とか孔子が使わなかったキーワードを持ってきている。一方孔子の「正」や「学」というキーワードは飛ばしてしまった。

⇒さらに僭越にも、自分の句を第2句にもってきた。・・だから、後世のアホ儒家はむしろ、有子(曽子らの冒頭)学而篇句を軸に儒教を組み立てた、というより、それは有子の儒教そのものなのです。漢の安定した帝国管理志向社会にはいったから、改めてこんなものが通用し定着した。(そして今に至るまで、東アジアの多くは表面的な体制国家・民主国家云々に関係なく社会的伝統的心理的にこの呪縛下にある・・)

⇒・・はっきり言って、これは孔子儒教ではない、のです。孔子儒教の根本は前記事8句=原学而篇、で、完璧でそれより大きくもなく小さくもないのです=尽きている。そこに違うものを挿入したのが、有子です。

--------------------------------------------------------------------------------

⇒いちど恐れ多いことをやってしまえば再犯は容易です、孔子子貢の「春秋」を変造し「論語」を捏造した。有子は孔子の「根本(=孔子も似て非なることをあちこちでいうが孔子の根本ではないのです。念のため)」世界では言っていないことを有子曰くとして挿入しつづけます。
有子曰。禮之用、和爲貴。先王之道、斯爲美。小大由之、有所不行。知和而和、不以禮節之、亦不可行也。(学而1の12、#12)

(読み下し)

礼の用は和を以って貴(とうと)しとなす。先王の道も斯れを美となす。小大これによるも行われざるところあり。和を知りて和すれども礼を以ってこれを節せざれば、また行うべからざるなり。

(通説)

礼を実践するには和を尊重すべきである。先王の道も和を尊重することで美となる。大小の礼は和を尊重してやればいいのだがそれだけでは十分でない。和を尊重しつつも礼のもつ節度が加わって完全な礼となる。
⇒これは孔子自身は原学而篇では一言も言っていない内容を、根本であるかのように、第一篇学而に持ってきました。・・有子の礼や和の重視の姿勢です。

--------------------------------------------------------------------------------

⇒有子にもう一句あります。
有子曰。信近於義、言可復也。恭近於禮、遠恥辱也。因不失其親、亦可宗也。(学而1の13、#13)

(読み下し)

信は義に近ければ、言を復すべきなり。恭は礼に近ければ、恥辱を遠ざかるなり。因はその親(しん)を失わざれば、また宗(そう、とうとぶ)とすべきなり。

(通説)

信(約束)が(その内容が)正しいことなら、言を繰り返(し実現)すべきである。恭(恭しくすること)が礼にかなっているなら恥ずかしいことはない。姻族であっても親しい人がいるなら宗族として付き合うべきである。

⇒人との付き合い方をいっている、らしいです。孔子の言葉と比べてなんと形式的概念的で魅力ないか!・・孔子の#1#3#6#14と比較すると、死んでいます。

⇒「因不失其親亦可宗」はいろいろ訳があるようです。上記通説内は六朝期の説を踏まえたrac読みです、念のため。

------------------------------------------------------------


-------------------------------------------------------------


有子=有若について
上記有子=有若、は、司馬遷「仲尼弟子列伝」によれば、孔子43歳年少といいますから、曾子(46歳年少)・子張(48歳年少)そして十哲の中の子夏(44歳年少)・子游(45歳年少)らと同世代、孔子の薫陶を直接受けた最後の世代です。・・子夏(晋の温出身とも)・子游(呉出身)・子張(陳出身)は陳蔡南下中も同行していたわけですが、有子と曾子は孔門学窓派で同行せずあるいはその後の入門です。

あるいは春秋左伝哀公8年に呉魯戦時魯の決死隊三百のなかに有若の名があり、子路に近く年齢も孔子の13歳年少で戦士であった、ともあります。これは多分別人です。

孟子(滕文公上)には有子は姿振る舞いが孔子に似ていたので後継者にしようと子夏・子游・子張が応援したとあり、相当な年配であったとしたほうがいい、但し、これには曾子が反対した話を伝えています。

また司馬遷は、上記論語中の#12#13の2本のセリフを引いた後、孔子なら答えたようなことに有若は答えられず黙然としてしまった、弟子が起立して「有子よ、その席を避けたまえ、そこは君が座るところではない」といったと、記して〆ます。

有子はこの後継者説と論語で出てくるから名が知られるだけで、孔子も直接対話・言及した記録(節)はありません。曾子のほうは、孔子から「魯(鈍)」といわれただけまだマシで、孔子にとっては曾子以下の存在感だった可能性が強い、のです。

孔子は悪口も含めて豊富な弟子評を残しており、弟子のみならず人を見る眼は極めて確かだった、とみます。はっきり言って、有子は孔子には歯牙にもかけられない弟子だった、そして司馬遷孔子後継者などとんでもないと思っていたらしい、ことは記憶しておいていい。

なお、故意か偶然か、知りませんが、有若の字(あざな)は子有、とするもの(「孔子家語」以降でしょう)あり、「子有」なら、孔門十哲で季氏家宰の冉有(ぜんゆう)=名は求で字は子有、と同じです。こういう紛らわしさも伴う人です。
以上、念のためと参考まで。

UNQT