1546.越王勾践の徐州会盟

1546.越王勾践の徐州会盟 :2011/6/2(木) 午前 11:09作成分再掲

------------------------------------------------

QT

不思議なほどに、春秋左伝は、春秋五覇のひとつともされる越王勾践の徐州会盟、に触れません。越王勾践のその後についても、左伝は無関心を装います。中原至上、呉越は蛮族、という伝統儒家そのものの世界観が大きいのでしょう。

が、左伝は、この後も魯や衛や宋の諸侯たちが頻繁に越と交渉するさまを語り、有力大夫たちはそれを鬱陶しがる様子を描きます。子貢の名前が両方から言及され子貢は活発に動き続けたことは間違いない。司馬遷が当時あった別情報から子貢は魯や衛の宰相を務めたと断言しますが、それはまさにこの時期、越王勾践の徐州会盟(前473年とされる)の前後10年程度のどこかであったろうと、推定します。

ここは、これまで推定どおり・・、

子貢(ら)はある時期から呉王夫差を見切り越王に乗り換えた。

子貢ら孔門志士派は、越王にも呉王夫差と同じように周王室を盛り立て中原和平安定努力を求めたが、呉王夫差とは違い越王勾践は自国利益優先の現実派で手堅かった。

そこで子貢は要求を一ランクさげて、魯や衛の諸侯のためにそのケシカラヌ有力大夫たちの排除・封じ込め、への越の協力を求めた。

越王ら越人はしたたかで、是々非々対応で大した成果は得られなかった。

------------------------------------------------------

左伝は何も書かない越王勾践の徐州会盟
古来、越王勾践の徐州会盟は、前473年、とされます。呉と呉王夫差を滅ぼすのが同年11月のことですから、その勝利直後の話です。司馬遷史記越王勾践世家」から(小竹兄弟訳、筑摩本)

「勾践は呉を平定したのち、兵を率いて北上し、

淮水を渡って斉・晋の諸侯と徐州で会同し、

貢ぎ物を周室に献上した。周の元王は胙(ひもろぎ)を賜い命じて侯伯(周体制の正式な諸侯)とした。

勾践は帰って淮南にいき、淮水の地方を楚に与え、呉が侵略した宋の地を宋に返し、魯には泗水の東、方百里の地を与えた。

このとき越の兵は江淮の東に横行したので、諸侯はみな越王を慶賀し、号して覇王と称した。」
⇒左伝はじめ伝統儒家国史が、呉越を軽視するのは南方蛮国と固定観念とともに、孔門有力一派だった(子貢ら)志士派そのものを孔子の死後、嫌悪否定するからだと考えます。すなわち(孔子の死後も)子貢ら孔門志士派が動いて呉王夫差から越王勾践に乗り換えたが、越王勾践は呉王夫差夫差よりはるかに「現実派」であり、その尊皇攘夷(まま)も最初だけで所詮見せかけ。従って、(孔子の後を書き継いだ原)左伝の筆者達は、越王の徐州会盟などまがいもの(蛮族を初めて諸侯と認めただけ)、そしてそれを導いた子貢ら孔門志士派はさげすむべき夷狄の越王にだまされただけ。いわば彼等孔門学窓派(仮称)には見たくもない慙愧の歴史だった、というにある。

(つづく)

UNQT