1518.孔子29:長沮桀溺、再説

1518.孔子29:長沮桀溺、再説 :2011/5/13(金) 午後 1:23作成分再掲。

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承前。

論語にもある「長沮桀溺」と「杖の丈人」のお話を、司馬遷孔子世家」は、この「陳蔡の遭難」の直前に持ってきます。

・・一見、うがちすぎ・読み込みすぎと思われるかもしれません、ですが、これもrac珍説奇説の傍証の一つに見えるし、ああ、司馬遷も同じ理解でいたんだ、と確信した、実は(今までいくつも上げた通りですが)最後の一点でもあります。まあ参考までに気楽に見てください(笑い)。記事1509もご参照 、←は論語の句ですが、↓は世家から、漢文文章もわずかに違いますが・・
mirobiiさんの現代和訳から(w/多謝)・・
http://blogs.yahoo.co.jp/mirobii/17880674.html

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(1)「葉を去り、蔡に帰った。長沮、桀溺が並(なら)んで耕(たがや)しており、孔子は隠者だと思った。子路をつかわし川の渡し場を問わせた。

長沮曰く「かの輿(こし 車の人を載せるところ))を執(と)る者は誰ですか?」と。子路曰く「孔丘(孔子)です」と。(長沮)曰く「これ、魯の孔丘(孔子)か?」と。(子路)曰く「然(しか)り」と。(長沮)曰く「これ(孔子)が川の渡し場を知っているだろうに」と。

桀溺は子路に謂った、曰く「なんじは誰か?」と。(子路)曰く「仲由(子路のこと)です」と。(桀溺)曰く「なんじは孔丘(孔子)の仲間か?」と。(子路)曰く「そのとおりです」と。

桀溺曰く「悠々(ゆうゆう)とは天下はみなこれなり。しかしだれがこれ(天下)をととのえおさめるのだ?かつ、その人を避(さ)けている人士(孔子)に従うより、どうしてなんじは世を避けている人士(自分達)に従わないのか?」と。種(たね)をまき土をかけて鋤(すき)の手を休めなかった。

子路はゆえに孔子に告げた。孔子は失望して曰く「鳥、獣(けもの)は同じ群れにくみすることはできない。天下に道が有れば、わたしはととのえおさめることにくみしない」と。」(孔子世家)
①現伝論語からだけでは、時期の特定は出来ませんが、司馬遷時代には何らかの補足情報があったものか、あるいは沢山の情報に通じていた司馬遷一門の推定か、わかりませんが、

1)子路に葉公を訪問させ孔子は自分のことをうまく話してくれなかったのかあ、という記事、のあと、

2)そして(1)冒頭「葉を去り蔡に帰った」あとの話。

3)この直後の記事は、陳蔡の遭難と楚の城父布陣、の記事です。

②長沮桀溺の二人はもちろん道家的隠者なのでしょうが、暗喩、としては、
4)蔡のなかの、呉派と楚派の象徴、あるいは
5)二人の隠者は、陳と蔡の象徴、とも読めます。

③だいたいが隠者の名前にしても、「長沮桀溺」とはおかしな名前で、長く沮(=はばむ)とか桀(はりつけ、あるいは桀王の桀)で溺れる、・・で現実の名前とは考えにくい、でしょ?(見た限りですがこの自然当然な指摘をされている解説書未見です!)

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しかもこれに続いて、陳蔡の遭難の直前の記事が↓
(2)「他日、子路が行き、蓧(あじか 竹や草で作ったざるのような農具)を荷(にな)っている老人に遇(あ)った。(子路)曰く「なんじは先生(孔子)を見ましたか?」と。老人曰く「両手両足をはたらかせず、五穀も分(わ)からず、誰が先生と思おうか」と。その杖(つえ)を置(お)いて、(蕓 芸のこと)草を刈った。子路はゆえに告げた、孔子曰く「隠者(いんじゃ 世捨て人)なり。」と。ふたたび往(い)ったが、いなかった。」(「孔子世家」)
④そして実は「論語」の文章はこれとは少し異なって続きがあり、また、上記文の途中には「子路がこの老人(=丈人)を自分の宿に招いて接待して二人の子供にもあった」という、ますます意味不明、のお話になっています(記事1509ご参照)

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⑤「並んで耕していた」「長沮桀溺」とか、「二人の子供」とか、でてくる・・なぜ二人なのか?・・ひとりではダメなのか??・・春秋風に微言大義とかいう割りにフツーここは気にせず(笑い)

孔子の生き様に対して道家的批判皮肉とそれに反論しての孔子儒家の理想を掲げた生き様を讃えるもの・・と解します。
もちろんそれでいいのですが、

⑨同時に、杖の丈人は「楚」、二人の子供、というのは、ここは「陳」と「蔡」とみると、いかにも相応しい・・のです。・・いずれも現状維持・あるがままの道家的保守的日和見的だ、と孔子は否定的に見ているのです、その暗喩と読める
のです。世家編集では場所も時期も置き所としては抜群、なのです(=微言大義の読み方、です、笑い)。

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さらに、

参考まで、想像
はいくらでも広がります・・

⑩前段長沮桀溺の話は、「渡し場」を聞くというのも何か象徴的でいい、知っているはずなのに教えないのが「陳」と「蔡」・・

⑪更に「二人の子供」の話は論語にあって、世家は落としている。これも深い・・論語が古くて世家の方が新しいから、もともとの記録や伝承には二人の子供の話があった。・・ということは、本当に古くからこういう竹簡があった、孔子の書斎にでも残っていた(というより孔子はソツないからこんなものは残しっこないが子路は整理整頓が悪いししかも勢いでの急死だから、ありえたとしたら子路の書斎の遺品でしょうが、笑い)・・(くどいですが「論語」も「世家」も「述而不作」、削っても加えることをしていない、と信じるので)

⑫そうなると、

子路孔子の間の「暗号」だったのかもしれない。・・長沮桀溺や杖人(=老人)というのはコードネームとしてはなるほどだし、そうなると、4)のようにも読める可能性もでてきて、丈人は例えば蔡(陳)国王、王には宴会までやって接待した、そこに二人の子供、すなわち呉派と楚派もいた。子路孔子の次の指示をもらって引き返したときにはだれもいなかった・来なかった。・・日和見というか、道家的というか、人はいませんねえ~
という子路から孔子への急ぎの暗号文書、だった、かもしれない。=また叱られるから顔をみずにすむ第一報を入れた(笑い)、孟子も言うとおり陳蔡には人はいなかったことになっているので子路でも感じたのでしょう・・。

・・まあ、次々と「こんな想像まで」できるほど、「論語」の長沮桀溺や丈人の句は、論語にしては長くて、その割にフツーに読む限り内容がなくて、・・要は読みにくい句です(・・でしょ?)


⑫楽しい想像を続けましょう・・

「蔡」を根城に、すくなくとも3年こんなことをやっている。・・子路でさえこれくらいの仕事をしたのだから、子貢や(魯にあった)宰予はフル回転していたことでしょう。・・陳、呉、楚、それ以外に魯・衛・斉・鄭、敵性国こそ問題で晋の勢力下のとりわけ反趙鞅派には、いろいろ仕掛けていたのでしょう。・・それを、楚王も葉公・宰相子西ら幹部も知っている・感づいている、だから、孔子一門を恐れるようなセリフ・国をのっとられかねない・大変な弟子たちがいる、などという

そして、こうした孔門の密かな努力が・・・

その気になって文章を続けますと(笑い)・・

一挙に花開いたのが、城父での楚の不戦であり、このあとの呉王夫差の彗星のような中原登場、なのです。孔子一派は、呉王の隠密部隊であった、というのはこの意味・結果的には正しいのです。・・そしてこの後孔子は書斎に引っ込んでいくように見えますが・・子貢・子路・宰予はじめ多くの弟子たちは現実に見える世界で大活躍し始めます。
(つづく)

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