1517.孔子28:楚による救難

1517.孔子28:楚による救難 :2011/5/13(金) 午後 0:51作成分再掲。

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二つの記事に分かれたので読みにくいかと思いますが、順に行きます。
前記事の○数字に従います。

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①②世家のこの前の記事を見てもらえるといいのですが、司馬遷(ここもたくさんのスタッフがいたはずで、司馬遷一門というべきなのですが)も、この前489年の前3年間孔子(一門)はずっと「蔡」にだけいたわけでなく、陳から蔡に入り、葉(これは楚です)にも行き蔡に戻っていて、また今は陳と蔡の間にいた、としています。3年にわたり蔡を基地にして、孔子自身も陳蔡楚を動いたし、弟子たちはさらにあちこち・・呉のみならず、衛や魯(宰予は季康子家宰クラスです、孔子とも連絡を取り合っていたとみます)、さらには敵性国の晋・宋、急速に力を失う斉にも・・出入りさせていたでしょう。(後述)

しかし、陳蔡辺りには、3年もいながら、・・結局、上にも下にも、孔子の理想を分かってくれるものはいなかった、という孟子の句も思い出してください・・これが、陳蔡の遭難の原因だ、とも孟子は語っている。

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③④⑤

孔子一行を襲った陳蔡の大夫たち、というのは、孔子の意図をちゃんと見抜いて、孔子を殺さねば、やがて陳蔡(の自分達)は亡びると見通せた(現に実際の歴史はそうなった)、危機主張の少数派だった、とみる。
陳蔡の大勢は現状維持の日和見、三年間も孔子は先の見通しと世の大勢、を主張したが陳蔡の大勢はわからないままで、呉に就くか、楚に就くか、とゆれた・・右往左往していた、だけ・・。
「陳と蔡の大夫は謀(はか)りて曰く「孔子は賢者であり、せめそしるところみな諸侯のなやみに的中する。今は久(ひさ)しく陳と蔡の間に留(とど)まり、諸大夫の設(もう)け行うところはみな仲尼(孔子)の意に非(あら)ず。今、楚の大国が孔子を招(まね)き来させる。孔子が楚に於いて用いられば、陳、蔡の事を用いる大夫は危うくなるだろう」と。ここにおいてすなわち互いにともに兵卒や人夫を発し孔子を野(の)に於いて包囲した。」(孔子世家)との前ページ(1)(2)にまたがる「世家」の文章はこう読んで始めて納得できます。

陳蔡の大勢でなかったことは、「ここにおいて互いにともに兵卒や人夫を発して野に囲んだ」の文章からも分かります。陳王や蔡王や陳蔡大夫の大勢なら、孔子一行を逃すようなことはなかったでしょう。この襲撃は、危機主張派による孔子暗殺行為だったのです。(つまり、孔子を殺せば呉楚秘密同盟もぶち壊せる、と陳楚のこの大夫達は知っていた、逆に言えば孔子がこの同盟推進のキーマンだったことをここも示唆しています。)

ですから、この事件は、フツー理解されている?ような、孔子が理想世界の遊説のために偶々戦乱地の陳蔡国境付近にいて不運にも地元の強盗団?に襲われた、などというものでは全くないのです。

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⑪⑫楚の昭王の、700里で孔子を迎える、孔子の弟子たちに勝る人材が楚にいるか、という文章は司馬遷の時代には残っていた資料に基づいていると思うので(司馬遷は述而不作の人と信じていますので、笑い)、現実にあった話ですが、このときではありません。

むしろ重要なのは、・・

ここで世家が言っていることで重要なのは、楚の昭王が暗殺された、城父の楚の陣には孔子一行がいた・・ということです。*
・・孔子は外交弁舌の切り札子貢を、楚の陣に送って王が迎えを遣したというが、ここはどうか。・・王というより葉公ら呉楚秘密同盟派(これは昭王を除く楚の大勢だったろう)だったと見たほうがよい。しかし、楚として孔子を救済したから正式な歴史では楚王の命、と記録されます。

   *「史記・陳の世家」では、「楚の昭王が城父で没した」のあとわざわざ「このとき孔子は陳にいた」と付記します。明らかに矛盾であり、この必然性のない陳世家の一句は、この点を問題にした後世、おそらく儒家の手、による挿入とみます。念のため。

 

もう一言言っておけば、

この時点での、孔子孔子一門にとって楚の700里(=コメ換算2万石以上)など魅力ではなかった、でしょう。このときの孔子らは、坂本竜馬なのです、
・・呉と楚の秘密同盟、勢いある呉を中原に進出させ中原の安定を回復する、楚にも協力してもらいたいが乗らないというならしかたがない、呉と戦って呉を消耗させることはやめてほしい、呉王夫差は中原に関心があり、楚なんかに野心があるわけではない、楚は呉の黙認の下に南方地場を固めたらいい・・中原に呉の力を活かして孔子流理想に近い社会を回復するいわば革命、それに比べれば、700里など何の魅力もなかった、とみます。

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以上数本、古来有名な孔子一行「陳蔡の厄」についての唯一無二の正解、と自負します。
(つづく)

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