1516.孔子27:陳蔡間の厄(孟子から司馬遷へ)

1516.孔子27:陳蔡間の厄(孟子から司馬遷へ) :2011/5/12(木) 午後 0:41作成分再掲。

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 承前。

孟子尽心下」孟子一番最後の篇ですが、以下言及があります。これだけです。

孟子曰「孔子之去魯。曰、遲遲吾行也、去父母國之道也。去齊、接淅而行、去他國之道也。」(孔子は母国魯を去るときはぐずぐずしていたが、(所詮)他国である斉を去るときは炊事を途中で切り上げて(ように、未練なく)去った」の句のあと、で、「士はひとに悪(=憎)まれる」句の前、です・・

孟子曰、君子之戹於陳蔡之閒,無上下之交也。」(孟子尽心下の18)
(読み下し=君子(孔子)の陳蔡の間に厄(=戹)せるは上下(しょうか)の交わりなければなり)

(試訳=孔子が陳蔡の国境あたりで災難にあったのは、(陳も蔡も人物がなくて)君主にも臣下にも孔子と交際するような人物がいなかったからである)

⇒通説どおりです、岩波文庫藤堂明保さんもほぼ同様の訳です。

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今、孟子同時代(孔子の200年後)の他資料を当たるだけの知見も体力もありませんので・・荀子墨子呂氏春秋荘子孔子「陳蔡の遭難」記事があるらしいが・・

が、正直やや面倒(笑い)、

もうrac仮説は十分合理的に実証された!!、
とも思いますので、

 

司馬遷の「述而不作」(古伝を後世に伝え勝手な創作はしない)を信じて、元の線に返して孔子世家」によります。また、論語孟子は日本独特の読みが固まっており不安があって漢文原文までみましたが、世家ではそれは少なく、信頼できるmirobiiさんのブログを基本に、必要に応じて小竹文夫武夫さん訳「史記」(昭和37年、筑摩)等見ることにします。なお、いうまでもないことですが、mirobiiさん・小竹さん他は、rac仮説ストーリ(=奇説珍説)とは全く関係ないお立場です。

http://blogs.yahoo.co.jp/mirobii/17880674.html
http://blogs.yahoo.co.jp/mirobii/17894634.html

これまでのややこしい話の復誦にもなりますので、ダブりを恐れず、以下、

mirobiiさんの現代語訳をコピペさせていただきながら、説明とrac仮説を付記対比させていただくこととします。(mirobiiさんの孔子世家の現代語訳コピペ、深謝です)

(1)孔子が蔡に遷(うつ)って三年、呉が陳を討った。楚は陳を救援し、城父で陣営を張った。孔子が陳と蔡の間(あいだ)にいると聞き、楚は人をつかわし孔子を招(まね)いた。孔子はまさに往かんとして拝礼した。陳と蔡の大夫は謀(はか)りて曰く「孔子は賢者であり、せめそしるところみな諸侯のなやみに的中する。今は久(ひさ)しく陳と蔡の間に留(とど)まり、諸大夫の設(もう)け行うところはみな仲尼(孔子)の意に非(あら)ず。今、楚の大国が孔子を招(まね)き来させる。
rac解説と読み方(疑問点)です・・

①前489年、楚の昭王が陳救済のため城父に布陣した、時、の記事です。これはいいでしょう。

②まず孔子は3年蔡にいた、といいます。なら、この前3年間、蔡のガタガタ時には、ずっと孔子がいた、これは重要です。蔡は呉寄りに王都を移しそれ故に?王は殺され、内部は少なくとも楚派と呉派に二分された時期です。

史記は別途、前492年5月の魯の火事を孔子は陳で聞いた、とも言っています。矛盾はないのですが、その後すぐにも陳の南の蔡にはいって、分派交錯か呉への協力かで動いていた、ことになります。3年間というのは大変長いです。

いずれにせよ、呉にしてみれば、この段階では、蔡はグチャグチャで戦闘能力がないかあるいは呉に就いたと判断して、北部陳に軍を進めた、とみるべきです。

孔子が陳と蔡の間にあって、楚が招いたから、といって、陳と楚の大夫たちが、要は、楚にいかせないように邪魔した、ということです。・・これはどういう意味か、楚は陳を呉からまもるために、助けに来たはずではないか。厳密に言って、陳と蔡のこの大夫たちは、呉の味方か、楚の味方か、それ以外か、今一よく分からない。

孔子を行かせないというその理由がまた単純ではない。むずかしい。

諸侯は孔子に責め謗られるという、孔子は賢者だとも言っている。諸大夫の意見とも一致しないといっている。孔子はだれの味方か、諸侯やその大夫たちに具体的に何を言ったのか?・・この諸侯とは、陳王(公)・蔡王(公)でいいでしょう(・・うがつなら、楚王も加わる、笑い)。

⇒疑問はそのままにして先に進みます・・
(mirobiiさんのブログからコピペ)

(2)孔子が楚に於いて用いられば、陳、蔡の事を用いる大夫は危うくなるだろう」と。ここにおいてすなわち互いにともに兵卒や人夫を発し孔子を野(の)に於いて包囲した。進み行くこと得られず、食料が絶(た)えた。(孔子の)従者は病気になり、起きることができなくなった。孔子は書物の意義を説き詩句を口ずさみ、楽器にあわせて歌い衰(おとろ)えず。子路はいきどおりて曰く「君子はまた困窮(こんきゅう)すること有ったのか?」と。孔子曰く「君子はひどい苦しみに会っても自分の主義主張を守りとおす、とるに足らない者は困窮すればすなわち乱(みだ)れるや。」と。

子貢は色をなした。孔子曰く「賜(子貢)よ、なんじは予(わたし)が多く学んで、これをよく知る者と為しているのか?」と。(子貢)曰く「そのとおりです。そうではないのですか?」と。孔子曰く「そうではない。わたしは一つを貫(つらぬ)いてきた」と。
⇒⑤孔子が楚に登用されたら、陳蔡のことを行っている大夫たちが危ない、というのが孔子を邪魔する理由です。

注意が必要で・・厳密には、陳国陳王・蔡国蔡王でもない、おそらく陳蔡のある勢力の自分達大夫、がやばいから、と自白している。

⑥そして互いに兵卒や人夫を発して野に孔子ら一行を包囲した・・そしてこの雰囲気なら、何日か孔子らは持ちこたえた、と見えます。だから、孔子の一行がそれなりの大集団だったか(例えば楚からの迎えも小軍隊でいたかもしれない)、あるいは攻めた陳・蔡の大夫らの軍隊が小部隊で、地場のごろつき程度の代物だったか。・・その割りには孔子は諸侯や大夫の意見と違っていると大事なことを言っている、事情通だ。

⑦食が絶え従者が倒れ・・は論語にもある文章です。また次の、一つを貫く、というのも論語の句です(後述)。
(mirobiiさんのコピペ)

(3)孔子は弟子(でし)がいきどおる心が有るのを知り、すなわち子路を召して問うた、曰く「云(い)う、『野牛でも虎でもないのに野原でさまよい歩く(賢者が災難にあいながら流浪の旅をする嘆き)』と。吾が道はあやまっているのか?吾(われ)はここに於いて何をすればよいか?」と。

(このあと20行に及ぶこの話ですが、全体の頁文字数の関係で省略しました。)


⑧一つのテーマで、子路と子貢と顔回と三大弟子比較、ともいうべき大変面白いお話ですが、これは論語には「ない」話です。

この中身は中身で興味深い(後述)のですが、長くて孔子らしい話ですから、一生懸命読んで、前後の重要事項・・楚の招請を受け楚へ行くはずの孔子をとめた、陳と蔡の大夫たちとは何者だったのか、という疑問は一瞬忘れてしまう(ように珍しく司馬遷は書いています)。

⑨しかし、楚の招請を知って邪魔しているのだから、この大夫たちは陳や蔡を名乗っていながら、呉の回し者だったのだろう、と短絡的に頭は解決する(仕組みになっています、誤読を誘っているのです、・・高度な文章術なのです、・・つまり何か韜晦隠蔽したいことがある)のです。

rac的には、そう読んで、宿題のままに、先へいきます。(笑い)
(mirobiiさんのコピペ)

(4)ここにおいて子貢をつかわし楚に至らせた。楚昭王は軍を興(おこ)して孔子を迎(むか)えた。然る後(のち)、(包囲から)免(まぬか)れることができた。

楚昭王はまさに書社の地七百里を以って孔子に封じようとした。

楚の令尹(宰相)の子西曰く「王(楚昭王)の諸侯に使わしめる使者に子貢のような者がいますか?」と。(楚昭王)曰く「いない」と。

(子西曰く)「王を補佐する大臣で顔回(顔淵)のような者がいますか?」と。(楚昭王)曰く「いない」と。

(子西)曰く「王の将軍で子路のような者がいますか?」と。(楚昭王)曰く「いない」と。

(子西曰く)「王の官吏で宰予のような者がいますか?」と。(楚昭王)曰く「いない」と。

(子西曰く)「また、楚の祖先は周より封ぜられ、子男と号して五十里を封ぜられた。今、孔丘(孔子)は三五の法(三皇五帝の政道)を述(の)べて、周公、召公のてがらを明(あき)らかにしています。王(楚昭王)がもしもこれを用(もち)いても、楚はどうして世世堂堂として方数千里を得られましょうか。それ、周文王は豐に在し、周武王は鎬に在し、百里の君主がとうとう天下に王者となりました。
今、孔丘(孔子)は土壌によりどころを得て賢(かしこ)い弟子(でし)が補佐すれば、楚の福(ふく)にはなりません。」と。

楚昭王はすなわち(書社の地七百里を以って孔子に封じることを)止(や)めた。

その秋、楚昭王は城父において亡くなった。

⑩野牛と虎の話をした後で、子貢を派遣し、楚王は軍を出して孔子一行を救い出します、これが古来(孟子以来)「陳蔡の遭難(厄・法難)」と呼ばれる、お話です。

⑪楚昭王は700里(米換算で2万石以上か?)で迎えたいといいますが、宰相(以下でしょう)大反対して立ち消えます。・・そして秋には楚昭王は城父でなくなった、それだけです。司馬遷は、ここでは戦死とも病死とも書きません。

⑫宰相の反対のセリフもいろいろ不思議です。

1)戦争さなか布陣中のはずですが、急ぎの軍師・軍隊として招いたわけでないらしい・・

2)700里というのはいかにも破格でしょう?それはともかくとして

3)一番不思議なのは、この時点で、昭王も宰相も、孔子の弟子たちをよく知っていたらしいこと、しかもみんな大変優秀だといっている。外交の子貢・補佐の顔回・将軍の子路・官吏の宰予、大国楚にも匹敵する人材がいない、とまで言わせている。

⑬この、子貢・顔回子路・宰予の彼等にとっては自慢になる話ですが、論語には一切ありません。孔子にとっても、楚の宰相が、孔子らに任せたら楚を乗っ取られかねないといわせたわけで、論語で採用してよさそうな話なのに論語にない。後の儒家らも孔子を「素王」とまで呼ぶなら採用してもよさそうなのに使わない。何か?なぜか?

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以上です、

さあどう読みましょうか??
(つづく)

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