1513.孔子24:楚の昭王の死=暗殺です!

1513.孔子24:楚の昭王の死=暗殺です! :2011/5/10(火) 午後 2:27作成分再掲。

QT

ますます遠回りになりますが、

余りにタイムリーな楚の昭王の死、を春秋左伝の記事原文で追いましょう。
http://ctext.org/chun-qiu-zuo-zhuan/ai-gong/zh

前489年、孔子63歳、3年の陳蔡滞在を引き上げて衛に戻った、というその年です。

前記事通り、呉は陳を伐ち北上を開始、呉の北上(いまや中原進出)を食い止めるべく、楚は陳を救わんと国境城父に陣します。このとき陳と楚の連合軍が、もし呉を破っていれば、この後の呉の中原進出はなかった(遅れた)、運命の決戦、だったはずです。しかし、楚の城父の陣内では、以下のような、極めて不可思議なことが起きた、そして、これまた孔子の変なコメントで左伝は〆ている・・その記事です。

--------------------------------------------------------------------------------

(1)秋,七月,楚子在城父,將救陳,卜戰不吉,卜退不吉。王曰,然則死也,再敗楚師,不如死,棄盟逃讎,亦不如死,死一也,其死讎乎。命公子申為王,不可。則命公子結,亦不可。則命公子?,五辭而後許。將戰,王有疾,庚寅,昭王攻大冥,卒于城父。(試訳)

秋7月、楚昭王は陳を救わんと城父(じょうほ、国境)にいたとき、卜った。戦っても不吉、退いても不吉、とでた。

(楚の昭)王は言った、「それなら死ぬということ。再び(わが)楚軍が敗れるということは死ぬようなものだ。(陳との)同盟を棄てて仇(呉)から逃げるくらいなら、これまた死ぬようなものだ。所詮は死ぬ。仇と戦って死のう」と。

(そこで)公子申を(後継の)王に命じたが受けず、公子結に命じたがこれまた受けず、公子?(=敬)に命じて5度辞退してから(?は王位継承を)ようやく受けた。

将に戦い、王には病気があり、庚寅(日にち)、昭王は大冥を攻め、城父で死んだ。


(2)子閭退曰,君王舍其子而讓。群臣敢忘君乎,從君之命,順也。立君之子,亦順也。二順不可失也。與子西,子期,謀潛師閉塗,逆越女之子章立之,而後還,

(試訳)

子閭(=公子?)は(王位を)退いて言った「昭王は自分の子を差し置いて、(公子である)自分に王位を譲られた。群臣は主君をないがしろ(=忘)に出来ないから敢えて王位を受けた(までで)これは順当なこと。しかし、主君の子を王位に立てるのが順当なこと。この二つの順はいずれも失ってはならないこと。」

そこで、子閭は子西(=公子申)と子期(=公子結)と謀って軍を潜め道(=塗)を閉鎖して、越の女が生んだ(昭王の)子章を王に立てて、(城父の陣から?)引き上げ帰ってしまった。


(3)是?也。有雲如?赤鳥夾日以飛,三日。楚子使問諸周大史。周大史曰,其當王身乎,若?之,可移於令尹,司馬。王曰,除腹心之疾,而寘諸股肱何益,不穀不有大過,天其夭諸,有罪受罰,又焉移之。遂弗?。初,昭王有疾,卜曰,河為祟,王弗祭,大夫請祭諸郊。王曰,三代命祀,祭不越望,江漢雎章,楚之望也,禍福之至,不是過也,不穀雖不德,河非所獲罪也。遂弗祭。(試訳)

この年のことであった。

赤い鳥が群れて太陽を挟んで飛んでいるように見える雲が三日にわたってあった。

楚の昭王が人をやって周の大史にたずねさせると、周大史がいうには「当に王の身のことでしょう、もしこれを?(お祓い・転嫁)して、令尹(れいいん=宰相)と司馬(軍長官)に移すべき、です」と。王は言った「おなかが痛いからといって手足(=股肱の臣たる令尹と司馬に)その病気(あるいは厄)を移しても益はない。自分(=不穀)に大過なければ天が災いすることもなかろう」といって、?しなかった。
これに先立ち、昭王には病があって卜したところ、河(=黄河)のたたりと。大夫らは郊外で河を祭りたいと請うたが、昭王はついに祭らなかった。王はいった「三代(夏殷周)では祀りを命じても、その地域を越えて(の神々は)祭らなかったものだ。長江・漢水・雎水・章水は確かに楚が祭るべき(=望む)川で禍福はここがすべてで限界だ。自分は不徳だが、黄河は自分の罪を得るところではない。」と。ついに(黄河を)祭らなかった。


(4)孔子曰,楚昭王知大道矣,其不失國也宜哉。夏書曰,惟彼陶唐,帥彼天常,有此冀方。今失其行,亂其紀綱,乃滅而亡。又曰,允出茲在茲,由己率常可矣。(試訳)

孔子は言った「楚の昭王は大道を知っているなあ。その国を失わなかったのももっともだ。

夏書(逸書)に「かの堯こそ天の常に従って天下を手にした。」いまやその行いは失われその綱紀は乱れ滅亡に瀕している。また(夏書は)言う「おのれを正しくして天に従えば、己によりて常なるものを得るだろう」と。」と。


⇒(1)~(4)ちと変な順番ですが、間違いなさそうです。文章も分かりにくく、どうにも、怪しい文章です。また、これに関係の左伝全文、です。・・日中に現伝している一般?の左伝は以上です。

--------------------------------------------------------------------------------


これをどう読むか??
です。

⇒もう「楽しい推理ゲーム」・・いろいろ考えられます。おそらく正解のない、推理ゲームです(笑い)。

「左伝」の再編纂は王莽時代の紀元前後、しかし「原左伝」は秦漢以前にあった、と見ました(記事○○)が、この部分は重要だから(笑い)、かなり早い時期に儒家たち(秦漢以前)の手が入っている、「何か」を隠蔽し韜晦しようとしている(後述)、このことは間違いない、不自然な文章、です。(でしょ?)

ただし、司馬遷が見たのもこの文章だった、という気はします。もう司馬遷にも真相は見えなくなっていた・・それで、司馬遷史記の「楚世家」ではこれを再編集してもう少し分かり易い話に仕立て直しています。司馬遷の読みが読み方の一つ、です。(史記楚世家はここではもう触れません。=司馬遷は、王の死はみとめますがこの勝敗については左伝を立てて言いません。本当に「述べて作らず」の人だ、と感じます。・・勉強になります(笑い)。)

--------------------------------------------------------------------------------


rac読みでは、楚の昭王は「身内による暗殺」になります。
興味深い細かなヒントはたくさんあるのですがそれはさて措き、まず大胆な(笑い)結論から
①楚の昭王は、城父で死んだ。戦死か病死か分からない。しかし、暗殺の可能性も否定できない。

②呉との戦いはどうなったか分からない。しかし、前後の歴史を見る限り、呉の圧倒的優位が続き、従ってこの戦いは、楚の敗戦か不戦負け・・

③むしろ楚王以外が呉との戦いには消極的で、王が死んで呉とは戦わずに楚は撤退した・・

④おそらく、王以外の公子・令尹司馬・そして葉公らも、このときまでには呉とは不戦、むしろ呉との同盟派に切り替わっていた。


実は、正直言って、司馬遷もこのように読んでいた、とみます、だが、そうは明確には書き残さなかっただけ、です。

司馬遷がこう読んでいた理由はいくつか挙げられますが、ひとつだけあげると、「史記・楚世家」では、この記事のあとに、2年後に呉から人質だった楚昭公の子を引き取ったこと(これも後には殺されますが)、10年後に楚が陳を亡ぼし楚の県としたこと、を続けて記しています。司馬遷はひとつの不可分の流れとみていた、ということなのです。

また、これを実現する主役は、孔子との会話が残っている葉公なのです。葉公はこのあと楚の令尹(宰相)代行につきます。(なお、論語の葉公との会話もこの線での読み方も可能です(次の記事))

・・陳は呉に見捨てられ、呉は中原をめざし、楚は足元を固める、=前489年の城父の陣の段階で、この線で話がついていた=「呉楚秘密同盟」ができていた。そしてこの同盟を実現したのは孔子一行であった、とみます。

--------------------------------------------------------------------------------


楚の昭公は孤立していた、多分身内による暗殺、となぜ見るか・・大きな流れとは別に上記の韜晦不可解な記事にもいくつもの示唆があります・・
1)三人の公子が王位を受けない、放り出す、というのは尋常ではない、譲るのも受けるのも放り出すのも、尋常ではない。
(おそらく彼等の「嘘」でしょう、なお、念のため、左伝や史記は彼等の主張をそのまま記録しただけです。・・というより「儒教左伝世界」では否定さるべき弑逆ですから、取り繕ったストーリなのです(後述))

2)何よりも越女の子(=楚の恵王)を即位させ、さっさと軍を引き上げたように書きます。しかも道路を封鎖した、とします。・・何のために?・・この前後に、楚の昭王はこの三公子らに暗殺された、とみます。

3)(1)末尾の「將戰,王有疾,庚寅,昭王攻大冥,卒于城父。」の文章は何か?・・文章になっていません、戦ったのか病気だったのか、死因がはっきりしない。本当に「大冥」などという場所があるのか。冥土で戦った?病死した?・・実は・・暗殺、でしょう。

4)周大史は本当に周の史家占師、と読みました。(孔子の世界や司馬遷の立場では)周の大史に間違いを言わせるわけには行かない(笑い)・・読みにくいところですが、楚の令尹(=宰相)にも司馬(=軍司令官)にも昭公は裏切られている、と読めるでしょう。知らぬは当人ばかりなのです。

5)黄河の神を祭る祭らないも、楚の昭王という人は、中原に野心がなかったことを暗示している・・中原への野心にもえる呉王夫差との際立った違いです。

6)孔子がそんな楚の昭王、を褒めている(・・のでしょう?)・・国を失わなかったというのは、このとき呉と戦えば楚は亡びた、と孔子は見ていたのでしょう。
他にもシンイ示唆的な話は読み取れますが、

以上れだけ重なれば十分でしょう。昭公は楚の中で孤立しており親の遺言の楚陳同盟だからと城父に布陣しますが、主要な幹部は勢いある呉との戦争はさけ、呉を中原に「追いやる」、楚は足元を固める、ことを選択していたのです。そしてこれは孔子一門の秘密工作の方向でもあったでしょう。孔子が暗殺まで指示したわけではないでしょうが、あとは当時の武人政治家達です=楚昭王は、城父で身内によって暗殺された、のです。

なお、なお、中原を避け足元を固める=これ、は当時亡国の越王勾践の戦略、とも同じです。長い目で見るとこれが正解で、このときの彗星呉王夫差は16年後の前473年に結局越王勾践によって破られ呉国もろとも滅亡。楚は(孔子の死の翌年)前478年には陳を亡ぼし前447年には蔡も亡ぼし、秦始皇帝の時代まで南方超大国の地位を保ちます。

 

rac的には以上「自明」ですが・・左伝儒教のタブーなのでしょう、これを暗殺とし孔子に結びつける読み方は未見ですので、・・ここもrac新説奇説、ご注意、と申し上げておきます。
(つづく)

UNQT