1508.孔子⑲南方呉と東夷への憧れ

1508.孔子⑲南方呉と東夷への憧れ :2011/5/7(土) 午前 11:33作成分再掲。

QT

論語孔子世家などどう読んでも、

孔子らがこの後、なぜに何の目的で、衛から南方=陳蔡楚へ向かったのか不明、
なのです。
現伝「論語」はそういう意味では最初からそんなことを説明する気はない代物ですが、

孔子世家」=司馬遷は最後の部分には、楚の昭公が孔子を招くつもりがあったが死んでしまったので実現できなかった、という説明をしますが、・・これでは陳に3年もいた理由が付かない、陳で大夫たちが楚がさらに強大化し陳にとって脅威が増すことを畏れて邪魔していたのだ、楚の大夫将軍たちは昭王に意向に反対だったからだ、といいますが、この時期、楚の昭王にそのつもりがあれば、いつでも孔子らを守りつつ迎えることは可能なだけの力を持っています。だから、なぜに孔子一行が陳周辺に3年もいたのか、rac的には納得できる理由は、ない、のです。

--------------------------------------------------------------------------------

ここでは、一度客観的に、南方の情勢をみる必要があります。この時期、

南方は「臥薪嘗胆」他で有名な越王勾践(こうせん)呉王夫差(ふさ)の時代です
・・大変有名かつ面白い時期です。

前522年(孔子30歳)超大国楚の平王、伍子胥の父兄を殺す、伍子胥は出奔し呉に入る。

前506年(孔子46歳)呉王闔閭が伍子胥孫武らと楚の首都郢を陥落、越王允常が呉本国を攻めたため帰国。

前496年〈孔子56歳)越王允常が死に勾践が継承、呉王闔閭は越に攻め込むが、?李で、越の范蠡の奇策に敗れ足親指の矢傷がもとで死亡。夫差に越王勾践への復讐を遺言する。この後が夫差の「臥薪嘗胆」。「呉は越を恨み西のかた楚を伐とうとはしなかった」(史記、楚の世家)。

前494年(孔子58歳)呉王夫差、会稽で伍子胥孫武らと、越王勾践を破る。勾践詫びて(伍子胥は反対するも夫差は許し)助命する。

前489年(孔子63歳)呉王夫差、陳を伐つ。楚昭王救援に向かうが10月死亡。楚は「ひそかに越王勾践の娘の子を迎えて恵王とした」(史記、楚の世家)。

前484年(孔子68歳)呉王夫差、伯?の讒言で、伍子胥を自刃させる。

前482年(孔子70歳)呉王夫差、黄池で諸侯会盟し盟主となる。越王勾践は呉都へ攻め入る。

前478年(孔子死後1年) 越王勾践、范蠡らと呉を伐つ。呉との決戦は控え和睦。

前474年(孔子死後5年) 越王勾践、呉王夫差を破り夫差自害、呉滅ぶ。

前468年 越范蠡辞して斉にゆく(「狡兎死して走狗烹らる」をさける)、465年斉の宰相となる。

前465年、越王勾践、死す。

--------------------------------------------------------------------------------

いろんな逸話・伝承の多い時期ですが、それはさておき・・

孔子一行は何を見ていたか・・です。

繰り返しますが、衛の霊公が死んだのは前493年です、孔子一行は翌前492年春には陳にいて、陳周辺で3年以上いて、楚の昭王が死んだのを見届けるようにして前489年に衛に戻っています・・

この時期、孔子一行の目にあったのは、楚でさえなく、呉の闔閭夫差親子の大活躍大進撃、ではないか。
伍子胥も呉につき(これは楚への恨みからですが)、孫武(斉での一族内紛を逃れて、伍子胥を頼って)も呉王闔閭の時代には呉に入っていた。・・天下の多くの名士処士論者は呉に起用されることを期待し沢山の人々が南方に向かったでしょう。

単純な話なのです。

変なその後の儒教の縛りをわすれて素直に見るなら・・
・・霊公死んだ後、葬式までの半年あり、子貢も魯をやめ孔子の元にいて・・弟子達みんなで相談結果、(松下村塾か福沢慶応塾です、天下と政治を論じ)・・

中原の時代は終わった、新しいのは南方だ、もう楚の時代も終わったかもしれぬ、勢いのあるのは呉と越だ、どちらが最終的に勝つか、楚はどう対応するか、伍子胥孫子のいる呉に勢いがある、いやいや范蠡もなかなかだ、王の器としては夫差ではなく勾践かも知れぬ・・云々

そうして、

例えば、ですが、呉につこう、呉に天下をとらせ王道を回復しよう、・・まあとりあえず南に下って様子をみよう・・その上で最終的判断をしよう・・
これが衛を去るときの、孔門一族の決定であり情熱だった、
のではないか。

--------------------------------------------------------------------------------

もう一点。ここで書くのがいいのかどうか他に書くべき場所が出てくるようにも思うのですが、・・

このころ東夷というと、呉のさらに海岸地帯だったと思われます
(もっと広く斉の山東半島の海岸から呉の東南までか)

孔子の夷狄への感覚はやや独特、で、必ずしも否定的ではありません・・論語から引きます。

「子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也。」(論語八?の5、#45)
(試訳=夷狄にも君があるが、今の中華の、君があっても無いと同然というのとは違う)

「子曰、道不行、乘桴浮于海、從我者其由與。子路聞之喜。云々」(論語公冶長の6、#99)
(試訳=道は行われていない。いかだに乗って(東夷目指して)海に浮かびたいものだ。自分に従ってくるものは由(=子路)かな。子路はこれを聞いて喜んだ。・・)

「樊遅問仁。子曰、居處恭、執事敬、與人忠。雖之夷狄、不可棄也。」(論語子路の19、#322)
(試訳=仁について質問。居処恭(うやうや)しく、仕事(つか)えるに敬、人には忠。これは夷狄の社会であっても共通だ。(今の中華はそれ以下だ。))

 

⇒また、孔子は物知りだから、堯舜禹らはいずれも南方東夷系のひとびと(記事1406,1401など)、さらには東夷は温和平和な人々というイメージ、を持っていた可能性があります。・・もちろん入墨をして未開で粗野というのも事実ですが(呉王らはそう自称します)、その性・質については好意的だった。当時の中華中原の乱世に比べれば、夷狄、とくに東夷については、ずっとましという期待が強いようにみえます

孔子らは、案外、呉の近傍の東夷にあこがれてさえ、いたかもしれない・・

(つづく)

UNQT