1497.「孔子世家」⑩陽虎と間違われる・匡の難

1497.「孔子世家」⑩陽虎と間違われる・匡の難 :2011/4/29(金) 午後 1:13作成分再掲。

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司馬遷孔子世家」によります。(衛で10ヶ月、霊公にも疑われる何かがあって衛を去り陳へ行こうとしその途上)匡で陽虎と間違われて拘留される話、匡(きょう)での難です。

お付の御者は弟子の顔刻。この顔刻が「先年陽虎ときたときにはあの城壁の欠けたところから入城した」というと、匡の人たちは、孔子が陽虎にそっくりだったので、かつてひどい目に合わされた陽虎が再度来た、と勘違いして、

孔子一行は拘留された。

5日後には、離れ離れになっていた顔淵(顔回)も合流。

・・顔回は「孔子とともにあり死ぬわけにはゆかない」、孔子は「先聖の道を明らかにしないうちには死ねない」という同志意識の確認がされます。

孔子は、従者を衛の大夫の甯武子の臣下にさせその力で匡から脱出できた。

蒲経由で一ヶ月ほどかけて、衛に引き返し、?白玉の家に寄寓した。
論語には「子畏於匡」ではじまる2句が
このときの模様としてあります。

「子畏於匡。顏淵後。子曰、吾以女爲死矣。曰、子在、回何敢死。」 (論語先進の22、#276)
(試訳=孔子は匡の地で(罪なくして死ぬことを)畏れた。顔淵(=顔回孔子最愛の弟子、でしょう)がはぐれてしまっていたが後れて合流した。孔子「お前はもう死んでしまったとあきらめていたよ」。顔回「先生が生きてられる限り、自分顔回は死ぬわけにいきません」。)

「子畏於匡。曰、文王既没、文不在茲乎。天之將喪斯文也、後死者不得與於斯文也。天之未喪斯文也、匡人其如予何。」(論語子罕の5、#211)
(試訳=孔子は匡で畏れた。そして言った「周の文王は死んだがその先聖の道はここ(孔子)にある。それを天は滅ぼそうというのか、なら(後世のものは先聖の道に)与れない、そんなはずはない。だから匡人あたりが自分孔子をどうこうできようはずがない。」

孔子が、魯の宰相代行として、「貴色あり」「高貴の身分も悪くない」といった時から、この事件は1~2年後のことでしょう。・・子路あたりは孔子の姿勢に批判的だったようですが、

⇒霊公からの疑いや匡での拘留などの厳しい現実の中で、逆に孔子らはその使命感と同志意識を急速に高めたように、みえます。

なお、この場合の「畏」は、吉川さん曰く「罪なくして死ぬことを畏れること」と、顔回のこのせりふはうれしくて、孔子顔回を一層愛するようになるのかもしれません。


⇒このときも弟子のだれだれと何人くらいで移動していたものか・・また、陳へ向かう途中といいますから、このときは南方、大国で言えば、楚の方角に移動していた、ことになります。

⇒また、よく分からないのは、従者を「甯武子」の臣下にして、そのおかげで匡から脱出できた、しかも、今度は子路の義兄のうちではなく、「?白玉」のところに世話になった、とあることです。

(なお、論語公冶長篇に「甯武子(ねいぶし)は、邦(くに)に道あるときは則(すなわ)ち知なり。邦に道なければ則ち愚。其の知は及ぶべきなり、其の愚は及ぶべからざるなり。」と孔子の評。また『淮南子(えなんじ)』に「?白玉(きょはくぎょく)、行年五十にして四十九年の非を知り、六十にして六十化す」と。)

これだけ固有名詞を明記する以上、何がしかの情報を司馬遷は持っていた、それに基づいて記録している、と思われます。・・どうも衛とは縁が切れていたわけではない、何か事情がありそうですが、いまのところよく分かりません。これも宿題。

(つづく)

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