1496.「孔子世家」⑨衛へ行く

1496.「孔子世家」⑨衛へ行く :2011/4/28(木) 午後 0:15作成分再掲。

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 「衛」国は、魯の隣国で子路の妻の実家があった縁でしょうか、司馬遷孔子世家」によれば孔子は前後4~5回滞在します。衛霊公はともかく、(結果か原因かは分かりませんが記録上)衛には知人友人もいたし衛で就職した弟子も何人もいた。金儲けも弁舌も外交も上手、孔子死後最後まで孔子を見送った子貢、も衛の人です。論語の句も衛の関係(者)、と思われるのはものが結構多い、です。


さて、少し先までみて・・

この後、孔子は衛のほか、陳や蔡など当時の中クラスの国々を、結果的に14年にわたって「うろうろ」します。

衛・陳・蔡は魯と同様に、東に斉・南に楚・西に晋(と更に西に秦)の大国群にはさまれた国々、まあ黄河淮河中流域に展開した国々(その一番西には周のご本家もあります)、全体は斉・楚・秦・晋(ほぼ東南西北の順で)囲まれている、そんな草刈場のような地域のまんなかをうろうろするわけです。

 

何が目的だったか、よく分かりません。


吉川幸次郎さんは西の大国「晋」を目指した、が果たさなかっただけ、とされます。

「斉」は繰り返す通り、魯昭公も陽虎・公山不狃も亡命するような先で、魯国自身も常にその強大な影響力の下にあります。そして、斉桓公とも魯の定公・季桓子ともうまくいかない以上、孔子としては斉にいくわけにはいかなかった。西を目指すしかなかった(孔子が斉に行かなかったという意味では昭公・陽虎不狃など通常の政治亡命者とは確かに異なるのです)・・。

そして(手垢の付いた状況や泥臭い政治を避けるように?)理想の政治・新たな活躍舞台を求めた、とみるべきなのでしょう。・・通説的にはそうみるようです。


だが、では、なぜに、当時の大国に行かず、伝統小国群、をうろうろしたのか。・・このころの大国のやり方は間違っているという孔子の考えからくるのか、そうではなく大国には沢山の人材もいて結局のところ招請がなかっただけか(楚からは招請あり、後述)、世家や論語がここは共通して示唆するように戦乱の中で容易に旅ができないものだったのか、・・・

あるいは、まあ伝統的で戦国混乱の小国でしか、孔子の復古的な政治実現はありえない、とでも、実は考えたものか・・
要するになぜに「こんな中途半端な変なところ」をうろうろしたのか(笑い)、これまた(rac的には)基本的な謎=宿題、なのです。

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さて、話を戻して、

孔子歴訪の最初の地でもあり最後の地でもある「衛」滞在、です。
「世家」による限り4~5回滞在しそれぞれ逸話を提供します。こうです。

①魯の宰相代行を辞めて直後に衛にはいります。しかし、訴えられて、10ヶ月で、衛を出ます。(前497年か496年)

②匡で陽虎と間違われ囚われられますが、衛の力で脱出、・・衛に戻り霊公と夫人南子のお供したりもしますが、霊公とまずくなり、衛を去ります(前494年、魯定公の死んだ年)

③公叔氏の蒲に拠る衛への反乱に巻き込まれるが、この後衛に入り、蒲対策で老いた霊公と意見があわずまた去ります。(前493年)

④晋に向かうがコネが死んだので諦めて、衛に戻り、霊公と用兵論議「せず」、ついに衛を去り陳に向かう(前493年、夏、霊公死ぬ)。

⑤楚の招請あるも実現せず、衛に帰る(前489年、魯哀公6年、)子貢の活躍、「魯と衛は兄弟」と孔子の弁。衛内乱で衛輒君と連携?。子路は衛に仕う?・・衛から魯に帰る。(前484年、魯哀公11年、孔子69歳)
史記孔子世家」     https://ctext.org/shiji/kong-zi-shi-jia/zh 
孔子年表」多謝   http://www.rongoni-manabukai.jp/nenpyou2.htm

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①最初の衛国訪問の記事は簡単で不思議な記録です、引用します。孔子は(魯国を去って)ついに衛に行き、子路の妻の兄顔濁鄒の家に主客となった(寄寓した)。

衛の霊公が孔子に問うた「魯ではどれだけの俸禄をもらっていたのか?」。孔子「粟六万斗でした」。衛でも粟六万斗を支給した。

しばらくして、ある人が孔子を霊公に訴えた。霊公は公孫余仮に(孔子宅の人の?)一出一入を監視させた。孔子は罪を恐れたのか、居ること10ヶ月で、衛を去った。
子路子路自身は魯のひと)のつて、でしょう。子路の妻の兄のうちに仮住まいしたようです。姓は顔家、そこそこのうちだったのでしょう。孔子の前歴は隣国の魯の宰相代行、魯を出奔した事情も筋の通ったものですから、孔子の就職もすんなりいった、

⇒早速、衛の霊公と面接、魯での年俸の横ばい=粟6万斗、で決まります。

⇒で、粟6万斗とはどれほどの金額か?

周から春秋の斗、は今の2リットルほど*、粟はやはり粟で、中原では米は長く(唐ころまで)東夷の食物とされ、粟や麦が中心だったのだとか。仮に、粟2リットルで1kgとすれば、6万斗は60トン、米並みとして1石=150kgだから、400石相当。まあ、食うだけなら400人を一年間食わせれる規模である(記事175)。・・当時の魯国や衛国の経済力や大臣クラスの処遇は見当がつかないので相対的なイメージはわかないが、まさに年俸で(土地持ち大夫ではない士、魯でもむしろ安値の)雇われ大臣だった、・・わが江戸時代なら上級武家程度、であろうか。

*当時の斗 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%97


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さて、

衛に初めて入ったとき、
と見られる記事が「論語」にあります。

「子適衛、冉有僕。子曰、庶矣哉。冉有曰、既庶矣。叉何加焉。曰、富之。曰、既富矣。叉何加焉。曰、教之。」(論語子路篇の9、#312)
(試訳=孔子は衛に入(=適)った。冉有(ぜんゆう、子有)がお付き(=僕)だった。孔子がいう「人が多い(=庶)なあ」。冉有「十分ですね」。「富裕だな」「十分ですね。さらに何が加わればいいのでしょうか?」「教育だな」)

⇒このとき紀元前497年(でしょう)、衛は小国ながら霊公38年目の長期政権、晋・斉・楚の脅威にさらされていますが、霊公の外交戦略よろしきを得て、(魯とは違い)衛の首都は安定してにぎわっていたようです。・・太子と霊公夫人南子との折り合いは悪く政治問題化していますが。

孔子にはこのときどれほどの弟子を引き連れていたものか。義兄のうちに寄宿するのだから子路はいた、上記論語の記事から冉有もいた。・・孔子の魯出奔の事情が事情、また希望に燃えた最初の遊説ですから、魯に就職していた弟子のかなりが職を辞して孔子につき従っていた、とみていいのでしょう。


⇒ところが、です。上記世家記事通り、まもなく、孔子は讒訴されます。・・疑われてしかも霊公自ら関心を持つような、讒とは一体何か?・・孔子本人も言い訳もせず逃げたところをみると思い当たる節があったものか?・・不親切な説明で全くわからない。

・・話を色っぽくするなら、霊公夫人南子との仲は子路も疑い孔子もへんな言い訳をしているからこれが原因で、次②の南子との記事の一部を憚って司馬遷がこちらに持ってきた、と読めないこともない。しかし、孔子は当時60歳近いおじいちゃん、南子と色恋があったかどうか(笑い、後述)・・これは宿題。

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さてさて、
以下、話の進め方・・どうも「衛」の話が多いので、衛についてだけ先に纏めてメモろうかと思ったのですが、それではますますわかりにくそうで、やはり時間順に素直に書いていくことにします。

それでも、です。

「世家」によるかぎり、孔子は、「衛」、と加えて、「陳」、に比較的長く滞在し、それ以外は道中という印象があります。あちこち動きまわった、というより、衛(と陳にも?)に生活基盤があって、事件があったり、招請があったり、すると出向く、そしてなにもなければ衛(と陳)に帰る。

・・14年わたる孔子の諸国遊説とフツーいうから、つい固定観念になってしまっているだけで、

実際は案外違って、子路のコネや友人や弟子の就職などの関係もあって、基本的には衛(と陳)にいた、というべきなのかもしれません。・・もっとも、資料的に衛のものが司馬遷当時まで沢山伝わっていてこの資料の偏りからそういう印象になるのかもしれません、ここもやはりよく分からない。

ですから、
時間的にたどって、「論語」の句も織り込みながら、すこし丁寧にみましょう。・・いずれにせよ、さまざまな挑戦を受けながらも孔子のものの考え方が固まっていく重要な過程であることは間違いない、のですから。

(つづく)