1495.「孔子世家」⑧孔子の治世

1495.「孔子世家」⑧孔子の治世 :2011/4/27(水) 午後 0:51作成分再掲。

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前々記事の③です。

世家では、50文字程度の情報です。高貴の身も気分いいものだよ、という前記事末尾の文章と、斉は孔子の治世を恐れて、国中の美女80人と飾り馬30駟(四頭立て)を、季桓子(および魯定公)に賄賂するとの文章、に挟まった、目立たない短文です。・・そして春秋左伝は認めない(一切言及ない)文章です。

於是誅魯大夫亂政者少正卯。與聞國政三月,粥羔豚者弗飾賈;男女行者別於塗;塗不拾遺;四方之客至乎邑者不求有司,皆予之以歸。(孔子世家)
https://ctext.org/shiji/kong-zi-shi-jia/zh
試訳=(司法大臣兼宰相代行の孔子は)魯の大夫で政治を乱していた少正卯を誅殺し、(季桓子と魯定公と共に、あるいは代わって)国政を取った、3ヶ月も経つと、羊や豚を売るものは掛け値せず、歩く男女は道を別にし、道に落し物があっても勝手に拾わず、四方からやってきていた客人から浮浪者にまで役所に請求しなくても必要なものを与えて帰した。)

⇒この記載を「事実ではない」として、無視するだけの根拠はあるか?・・『春秋』左伝他に孔子治世の文章がないことは前記事に加え、・・まあ一言で済ませれば、後の世の現実には無能な儒家たちの孔子への嫉妬、もあるのかも。
⇒むしろこの記事は、このまま信じてもいい、と思います。


とりわけ、もっともらしさを感じさせるのは、少正卯、というおそらく季桓子の政敵だったのでしょう、を誅殺した、とあることです。

荀子・伊文子(名家)など史記以前に遡れ得るものに、少正卯、は登場する*、詳細不明だが実在はしたらしい。儒教系では、五悪の悪政治家とひとことだが・・この時期孔子は、季桓子と魯定公の意を受けて動いていたはずで、少正卯、とは季桓子にも邪魔な有能な政敵だった、と見るべきでしょう。

商人が掛け値しない、男女が別に歩む、浮浪者対策など、いわば大したことではない、制度的革命的何かがあったわけではない。中都時代から孔子の治世は実績もあり有名で期待もあったのでしょう・・3ヶ月も経てば、よさそうな支配者ということで良く治まりはじめた、ことの表現と思います。
*少正卯(しょうせいぼう) http://baike.baidu.com/view/90572.htm


⇒なお、参考まで、rac奇説珍説ですが、
春秋(左伝)にないことを世家だからといってどうして信じる気になるか、について。まず俗にいわれるように『春秋』経、は孔子が手を入れたもの、・・とは考えにくい、です。

・・たしかに、孔子はよほど謙虚で、国際関係等をも書く春秋に小国魯の些細なことは書くこともない、まして自分のことは書けない、ということだった可能性はないではない。

しかし、実は、そうでもない。

喜色ありという宰相代行時代以降、魯国春秋に手を入れる機会があったとすれば、孔子はもう少し何かを書き加えさせた、とみます。

が、現実は、この後すぐに、季桓子らに国を放逐されて魯国政治史の主流からは外された人であること、さらに後に帰国したにしてもすでに魯国の春秋に手を入れれるような高い立場ではなかった、と素直に見ます。孔子には、所詮、そのチャンスがなかった・・。

一方、よれよれながら魯国は間違っても秦始皇帝の直前まで国として存在します・・この間に、孔子以降のいわば民間の儒家たちがそれに手を加えるなどということも、出来なかったでしょう。

孔子に習って民間儒家がその後も(各国の?)春秋(=歴史書)に勝手な解釈をしていたことも事実でしょうが、魯国存在中に本文に手を入れえた、とは考えにくい。

・・むしろ、魯の国がなくなった後漢初でしょう、本文(経文)についてはドンドン削っていって現伝の春秋経本文=断爛朝報、にしてしまった・・そして各種の注釈は継続して行った・・それが後の春秋三伝になっていく、というところでしょう。

以上、春秋は正しくて世家が間違いという常識があるとすれば必ずしもそうとも言い切れまい、ということ。この項、余談。

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論語には「定公問う」で始まる句がふたつあります・・定公が孔子に君臣や興国亡国をききます、このころの記事と見ていい、でしょう。

「定公問、君使臣、臣事君、如之何。孔子對曰、君使臣以禮、臣事君以忠。」(論語八侑の19、#59)
(試訳=魯の定公の質問。君が臣を使い、臣が君に事(つか)えるとはどうあるべきか?孔子は答えた。君が臣を使う時には禮をもって、臣が君に事えるときは、忠を以って、すべきです。)

⇒三桓三城を圧迫する時には、こういうやり取りも定公と孔子の間にあった、と考えたい。

「定公問、一言而可以興邦、有諸。孔子對曰、言不可以若是其幾也。人之言曰、爲君難、爲臣不易。如知爲君之難也、不幾乎一言而興邦乎。曰、一言而喪邦、有諸。孔子對曰、言不可以若是其幾也。人之言曰、予無樂乎爲君。唯其言而莫予違也。如其善而莫之違也、不亦善乎。如不善而莫之違也、不幾乎一言而喪邦乎。」(論語子路の15、#318)
(試訳=魯の定公の質問。諸説あろうが一言で国を興す(発展させる)ことをいえばどういうか。孔子の答え。一言で言うのは難しいが、世間では、君たることは難しい、臣たることも容易でない、という。君たることの難しさを知ることがそれに近い。(=君がしっかりすればいい)

定公の質問。一言で国を喪うといえばどういうか。孔子の答え。一言では難しいが、(ある)人は「自分が君たることが楽しくはない、ただだれも文句を言わない(のはいい)」といいます。善いことで反対がないのはいいが、不善にして反対がないことがそれに近いのでしょうか。」)

⇒定公というのはアンチョコの人だったようにみえます、後段の「人の言」も孔子が漏れ聞いた定公自身の弁かもしれません。孔子は遠まわしですが、定公本人が国を興す素のすべて、馬鹿なことをやってだれも止めてくれないなら国は亡びる、といっています。

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定公との上記のような会話があったらしいのに、何の効果もなかったようで、孔子はあっけなくくびになります。
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上記に続く世家の文章です。
斉の側は孔子の治世を警戒して、このままでは魯国が勢いを増し、覇者になりかねない。斉は真っ先に併呑される。

その前に先手を打つため、例の黎?のアイデアでしょう(名宰相晏嬰は死んでいます)
「斉国中女子好者八十人,皆衣文衣而舞康楽,文駟三十,遣?君」。(世家)
(試訳=斉国中から美貌の女子を80人選び、全員に美しい衣を着せ康楽を舞わせ、飾り立てた4頭立て馬車30台に分乗させて、魯公に送った)
喜び組作戦です・・季桓子は魯公を誘ってこれを毎日楽しみ、政治を怠った。


子路は、孔子に辞任すべき(=季桓子と魯公に反省を促せ)というので、孔子は辞任を申し出ます。ですが、季桓子も魯公も止めず、そのまま、魯を捨てて、衛に向かったと世家はいいます。

これを契機に、実に14年に及ぶ諸国流浪遊説が始まります。孔子56歳、定公14年、前496年、以降、と世家はいいます。(通説では定公13年、孔子55歳、と)
⇒これをどう読むか?1)そもそも季桓子が孔子を重用したのは、身中の虫、費城に拠る(本来なら部下の)陽虎や公山不狃を駆逐し、三桓圧迫という孔子主張に乗って叔孫氏と孟氏(更に少正卯など)有力競争者を排除するためだった、とみえます。

2)孔子一門の宜しきを得て、それらに成功、魯公の信頼も厚く、魯国の間違いないナンバー1に、季桓子はこの時点ではなっています。

3)孔子には宰相代行のポストを与え、喜ばせても、・・決して実権は手放さなかった、でしょう。

4)むしろ、孔子の名声が上がり、斉にとっても脅威とまで思われてしまっては、行き過ぎで不得策・・

5)斉の喜び組攻勢も嘘ではなかろうと思いますが・・事態はそういう表面的なことだけではない・・孔子はまさに「走狗煮らる」で、外された・・わけです。

6)このときの孔子子路に急き立てられたようで「未練がましさ」はありありです。・・そういう性格でもあったのでしょうが、どうでしょう。この時点では子路は季氏家宰(きっと子路はさっさとやめて孔子にも辞任を迫ったのでしょう、サスガの子路も裏の話が読めたのでしょう)ほか、多くの弟子たちも(季桓子の力で)いい仕事や官職にありついていたのだとも想像します。孔子に逡巡があるのはこのことが気になったでしょう。十分理解できます。

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この場面は、論語にあります。こちらは舌足らずな分、「格好いい」です(笑い)。

「斉人帰女楽、季桓子受之。三日不朝。孔子行。」論語微子の4(#464)
(試訳=斉国は女楽を贈(=帰)った。季桓子はこれを受けた。孔子は去(=行)った。)

なお、論語直前の微子篇の3は、斉景公の「吾老いたり、用いることあたわず。孔子行(さ)る。」、です。・・独特の感慨があったろう、この二件二句を論語は微子篇で合わせ並べています。

・・微子は殷紂王の庶兄で紂王を諌めた君子ですが、「微子」とだけみれば、「小者」達、とも読めるのだと思います、やはり「掛詞」でもあるのです。篇名も無造作についているわけでは必ずしもないとみえます。
(つづく)

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