1490.「孔子世家」③三十にして立つ?

1490.「孔子世家」③三十にして立つ?:2011/4/22(金) 午前 10:58作成分再掲。末尾修正しました、為念。

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この調子では『論語』について・・は全体、相当長くなるかもしれません・・

しかしいい機会なので、今の自分なりに納得できる論語読み、をしてみるのも悪くない。世に得心できる論語孔子論はなく*、・・急がねばならないことでもなく・・例によって時空散策気分で(笑い)

*読めてないものも沢山ありますが、読んだ中では、吉川さんの「論語」上下本(朝日選書)、がやはりよい(=1955~63年ころ、200回にわたり9年をかけての口述、らしいです)。


・・で、ここで試みているように司馬遷史記孔子世家」を軸に、朱子論語集注」や吉川さん「論語」上下他とネットの検索機能、で読んでいって、どんな具合に展開し読めるものなのか、・・自分でも先が分からず、大変楽しみ、です。(笑い)

続けます。(⇒racコメ)

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(2)斉の景公は孔子を買ったようです、孔子30代の約10年のことです。
①「世家」は「(老子に学んで)周から帰ってきて孔子の弟子は増えた」と、ひとこと。

⇒そして「世家」は簡潔に当時の孔子の周辺状況、を説明します。

要は・・魯は家老クラス三桓(季・孟・叔孫三家、魯桓公の分家といいますから、遠い祖先はいずれも周公旦でその血を引いている)が威張り、魯公本家はよれよれ。また、魯国は名門ですが、周辺の大国にはさまれてあっちを立てればこっちが立たずで、東方の斉・南方の楚・西方の晋、が魯をはさんで常に介入外交戦役します。

⇒・・そういう国難の中で、孔子は、松下村塾か福沢慶応塾のような、私塾のボス、です。


「時に魯の昭公20年、孔子は30歳」と「世家」はいいます。前520年。

③この年、孔子魯にあって30の時、「斉景公が晏嬰とともに、魯にやってきます。」
(⇒なお、斉公がどういう理由事情で魯に来たかは具体的には「世家」は説明しません・・孔子の一生の説明にとっては重要ではないから、でしょう。)

「景公は孔子に問うた。」と「世家」。
斉景公「昔、秦の穆公は西方僻地の小国ながら諸侯に覇をとなえることができた、なぜか?」(世家)孔子曰「秦国は小さかったが志は大、僻地にあっても行いは中正。穆公みずから百里奚(賢臣)を起用、役人たちに爵位を授け、罪びとの中からも賢を登用。王者にもなれる善政を敷いた。覇者に止まったのはむしろ卑小。」(世家)以上、「世家」ですが、

⇒「論語」にはこの記事そのものはありません(よね?)。

この孔子の回答に「景公は喜んだ(説=悦)」と「世家」はいいますから、斉景公と孔子はケミストリは合った、と司馬遷は考えています。

⇒なお、このときの斉景公は覇者斉桓公の時代(前650年ころ)に次ぐ第二の栄華期。だが、その繁栄は晏嬰の手腕によるもので、景公自身は贅沢を好んだ暗君とも、その後、伝わります。・・後に孔子を見捨てるから(後述)、後世儒家史家からその恨みを買って暗君、の烙印を押されていくのでしょう(笑い)


孔子、35歳の時、魯の昭公(孔子の国の正統な君主です)はつまらないこと(季氏の闘鶏)で三桓と対立し戦闘になって、魯公は魯国を追われ、斉の国に寄宿(亡命、魯は三桓支配です)します。孔子は(弟子を連れて)その後を追い、「斉の大夫高昭子の家臣となり、意を斉の景公に通じようと臨んだ」。

孔子はすでに、斉景公のご下問に答えいかにも面識があるように「世家」は語りましたが、・・身分や経済力等の理由でしょう、魯昭公のお供で斉に亡命しても、斉公に仕えることも魯公に仕えることもなく、斉の大夫の世話にならねばならない状況だった、ようです。景公に「意を通じようとした」というわけですから、本当はまだ景公に直接認められているわけではない(面識もない?)のかもしれません。


⑤「世家」はエピソードを挟みます。

孔子は斉の太師(音楽官)と音楽について語り、韶(堯舜の音楽)を聞いて学び、その善美に打たれて三ヶ月も肉の味も知らなかった。斉の人々はこれを称揚した。

この記録は論語にあります。↓
論語』述而篇の13「子在斉、聞韶、三月不知肉味、曰、不図為楽之至於斯也。」
(「子、斉に在りて韶を聞く、三月肉の味を知らず。曰く、図らざりき、楽をなすことのここに至るなり」)


ようやく、景公が政治について孔子に問いました。「世家」によれば孔子が斉に居た、35歳~40歳の間です。
孔子「君が君たること、臣が臣であること、父が父、子が子であること、です」景公「よろしい!君が君・臣が臣・父が父・子が子、でなかったら、いくら食い物があっても、自分はのんびりと食べてなどいられない」この記録も論語そのものです。

論語』顔淵篇の11「斉景公問政於孔子孔子対曰、君君、臣臣、父父、子子。公曰、善哉、信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾豈得而食諸。」
また景公に政治を問われ、節約すること↓と応えたと「世家」にはありますが、これに相当する字句は論語にはないようです。
孔子「政治とは節財にあり(政在節財)」(世家)孔子の言葉を、景公は喜(=説)んで、孔子を大夫並みに遇しようとしますが、

宰相の晏嬰は反対します。晏嬰は、「儒者」(とは世家にはありますが本当は孔子あるいは孔子一派は名指しだったでしょう)は「滑稽・倨傲自順・葬式好き厚葬貧乏・諸国遊説借金まみれ・礼儀立居振舞やりすぎ」で民の風俗としてはよろしくないと、むしろ、・・節約などとよくいう、孔子の世界は逆・違う、といわんばかりの否定振りです。これが、景公にも効いたのでしょう・・一気に斉での雰囲気も変わったらしく、

孔子を遇するに、「季氏ほどには出来ない、季氏と孟氏の中間なら」と景公は前言を翻し、再び孔子に礼(政?)を問うこともなく、やがて斉の大夫のなかで孔子を殺そうとの動きも出て、ついに景公にも「自分も老いた、そなたを登用できない」といわれ、

孔子は斉を去って、魯に帰った」と「世家」はいいます。

なお、念の為ですが、魯の昭公は斉に寄留したままです。(⇒孔子は魯昭公を見限ったのか、あるいは見捨てても魯に帰らなければならないほど、やばかった、のか、この辺明記はありません。)
斉景公の信頼を失って孔子が斉を去る、部分、については、論語にあります。

論語』微子篇の3「斉景公待孔子曰、若季氏則吾不能、以季孟之間待之。曰、吾老矣、不能用也。孔子行。」
(試訳)

斉景公は孔子の待遇について言った。

「魯の三桓家筆頭の季氏と同等というわけには行かない、しかし、三桓家次席の孟氏の上程度には遇しよう。」

(追って景公は)また言った。

「自分は老いてしまった、起用することはできない。」

そこで孔子は(斉を去って)行った。

論語でのこの記事の採用意図はよくわかりませんが、論語だけでは飛んでしまって事情がよくわからず、途中経過を補って「世家」の文章としたのが、司馬遷一派だったわけです。重ねて、孔子の「政治とは節財」の弁は斉に於ける運命の分かれ道だったらしいこと、そして何より論語にはないことは、大変重要です(後述)。


世家の次の記事は、孔子42歳とありますから、以上、斉にいたのは、30代一杯程度、と司馬遷は考えていたものと見られます。

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実は、これほどの恩人?斉の景公、を論語ではよく言いません。・・子曰く、としますが、もし世家も論語も本当なら、恩人を悪く言う孔子は決して性格のいい人とは言えません(笑い)

論語』季子篇の12、子曰「齊景公有馬千駟、死之日、民無徳而称焉、伯夷叔齊餓于首陽之下、民到于今称之、其斯之謂與」
(試訳)

斉の景公は馬を4千頭(駟は4頭立て)も持っていたが、死んだ日、民は有徳の君主とは称えなかった。伯夷叔齊が(王位を譲り合い国を逃れ周朝に来ても周もすでに不徳だったため周粟を食うのも嫌がって)飢え死んだが、今に至るまで民はその有徳を称えている。(詩経に「富は大事なことではない、そんなことより大事なことがある」というのは)こんなことをいうのだろう。


ところが晏嬰については論語は悪くは言いません。司馬遷「世家」によれば、孔子を悪し様にけなしたのは晏嬰、です。ですが、論語では

論語』公冶長篇の17、子曰「晏平仲善與人交、久而人敬之。」
(試訳)

晏平仲(=晏嬰)は人と善くと交わる。旧友であっても敬して応対する。

司馬遷は、「晏嬰になら、私はその御者として仕えたい」というほどの晏嬰ファンですから(・・晏嬰はまあ諫言・勇気・倹約・社稷(民本)の名宰相、春秋尺6尺=135cmほどの小男)、「世家」の晏嬰のセリフは嘘ではない(司馬遷も同感の部分があった、でないとあんなに強い否定はいえません)、一方、孔子の、その交際術をほめる晏嬰評、も本当と信じたい(笑い)・・

 

⇒そうなると、
季子篇の12の、千頭の馬の斉景公と伯夷叔齊の、「安っぽい」話が、孔子の言葉としては、嘘で、後世の二流儒者が捏造して論語に挿入し孔子の言葉としたもの、と推定してもいい(宿題、留保)。つまり、司馬遷が採用した孔子の記録には、斉景公に「政治は節財」と孔子は言った、とあった。司馬遷は本当と判断して「世家」に採用した。30代の孔子は、後の孔子とやや違い、秦の穆公の志や官位で人を使う、あるいは節財やお金をいい、大国斉公の歓心を得るようなこともやった、可笑しくはないと、司馬遷は判断したわけです・・。

ところが、このセリフは儒教としてまずいと思ったやはり二流儒家がいつの時代かに(司馬遷前後の相当古い時期でしょう)、あろうことか孔子の弁「政治は節財」に替えて(この種のお金がらみの話を孔子から消していく・・のです)、詩経まで動員して「富より大事なものがある」という主張をしたくて、また(少し同情的にいっておけば)斉景公がもう少し頑張ってくれれば孔子はもっと活躍できたのに、という思いもあって、敵役季氏にちなんだ季子篇の中に、この景公非難のでっち上げ話を挿入した、とみておきます。

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⇒いずれにせよ、以上が孔子の30才代です。大したことないのです。弟子はいたのでしょうが、魯(公)にも斉(公)にもちゃんと容れられないまま30代を過ごしたようで、30にして立つなどと孔子が本当に発言したものかどうかむしろアヤシイ。30にして立つ40にして惑わず云々の有名な言葉は、自分がそうだったというにはあまりに嘘っぽく、言ったとしたら最晩年一生を振り返って、自分はそうできなかったがそうであったらよかった、そうあるべきだった、と後悔の念から(あるべき論として後輩のために)語ったとする方がふさわしい印象です。
(つづく)

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