1570.先進篇の本質

1570.先進篇らの本質 :2011/6/15(水) 午前 11:18作成分再掲。

論語上論10篇の最初と最後=学而篇第一、郷党篇第十につづき、先進篇第十一、を読みます。先進篇は下論10篇の筆頭です。武内さんB本にならい、細かなところはともかく基本「上論10篇は魯系、下論10篇は斉系」と見ます。

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論語が他のこの種のご本と比べ特徴的なのは、弟子や知人の論評が大変に多いことです。英雄や有名人を語るのはどこにでもあることですが、論語は弟子や知人の身近な人たちのことを、その発言を通じて、あるいは孔子との問答や孔子のコメントを率直に悪口も含めて、書きます。それぞれの特徴を巧みに捉え、よくできたスナップ写真集の趣があるのです。弟子達のスナップ集は上論では主に「公冶長篇と雍也篇」であり、下論では主に「先進篇と顔淵篇」です。


⇒ところが面白いことに、魯系上論の公冶長や雍也篇だからといって素直に魯系で孔門学窓派のことを書くそして斉系下論だからといって孔門志士派のことを書くか、というとそうではない。登場人物は主に孔門直弟子たちが殆どで、だから、どうしても志士派(=ほぼ孔門十哲)が多い。で、その引用は魯系では彼等の発言や孔子コメを通じて、その理解が十分でないとか、悪く低く、言っているものが多い。斉本では志士派を認め誉めているものが多い。

孔門学窓派の代表の曾子あたりについては逆で、魯系が誉める、斉系が浅くあるいは悪く言う。

そしてどちらも悪く書かないのが顔回あたり。孔子が大変愛したことは間違いないが具体的によく見えない、だから、魯系も斉系も良く書くにも悪く書くにもどうも材料がなかった節もあり、結局両陣営とも孔子の嘆きばかりを書くからどうにも偉い人らしい、という一方的印象ばかり残る。


スナップ写真なので、笑顔のいいところばかりではない、居眠りしたり失敗したり、それでもなるほど「彼」らしい、こうして逆に読者に「彼」のイメージが自ずと形成される。・・おそらく沢山の写真(句)がこのほかにもあった、でしょう。


まずは、学窓派直弟子(=魯本の編集委員)たちが相談しながら、これは彼らしいというものを選んでいる、志士派の子路子貢などのことを良いも悪いもよ~く見知っている人たちが編集している。・・身内の学窓派魯派についてはいい写真をえらび、エネルギッシュにやったが結局失敗した志士派子貢や子路などについては変な写真を選んだ。これが公冶長と雍也篇(のオリジナル)です。それを知った旧志士派は斉で同じ要領で原斉本を作った。「結果は失敗だったが志士派だってバカだったわけではない、むしろバカは学窓派と先生はいっていたよ。」の気持ちです。・・こちらも子貢は晩年、まだ生きていた気がする。これが先進と顔淵篇(のオリジナル)です。お互い敵味方(学窓派と志士派)に分かれたから辛らつでくそみそのショットもある。・・直弟子世代の多くがまだ生きている時にこの辺までは魯本と斉本の両「原論語」はできていた、とみます。そうでないと相手派を意識しながらのこんな面白いスナップ写真集はできない。

変な写真(句)だなと思っても、いずれも大先生孔子の観察(孔子の評であり言葉であり文字通り写真です)だということはお互い知っているからデリートもできずついついそのまま残した。だから、残った。それで、いまでも、当時の名残を少しは窺える、そんな印象なのです。

その後さまざまな経緯があって二派二種類のスナップ写真集は、それぞれ下手な写真が加わったり、友人知人の写真も入ったり、背景風景写真を入れたり、どうもお互い気に入ったのか魯斉間で一部写真が入れ替わったり(笑い)、・・で沢山の例外もあるのですが、

・・そういう目で一度読んでみてください!!


⇒どうもうまく説明できないのですが、忠恕派と礼法派というような学窓派内のセクト的な内輪もめ?などとは、レベルも、規模も、違う。・・塾長に曾子がなろうが有子がなろうがそんなことには子貢らには関心はない。はるかに理想を追い現実変革を企図した追かけた。確かに失敗した、孔子は嘆き、子貢は諦めたかもしれない、しかし生き様に後悔はしていない。

・・学窓派(魯派)と志士派(斉派)はお互いを認めている・・違う世界と納得しあっている・・上下とも大小とも違う。孔子にはこの2面がある。そして確かに両者には孔子を巡って対抗意識はある、だけどお互い楽しんでもいる。・・だから後世、魯本と斉本が一緒に合わさってもちゃんと読める・・決定的な矛盾はない、お互いくそみそのスナップ写真でもいやらしさがない・・これが孔子なんだろうな、とちゃんと読める。

両方見てやらねばならない、その意味では鄭玄以下の今に至るまで所謂儒家は(愚かというよりも体制の制約もあって、でしょう)明らかに一面しか見れていない。

・・そんな感じなのです。・・これが論語孔子の、今読むべき、真の姿です。

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さて、先進十一は、斉本の①原学而篇と②原郷党篇の直後③にあった可能性を見ます。
⇒繰り返すとおり、原学而篇は孔子の根本思想、原郷党篇は礼法マニュアルです、この二篇で孔子言行のポイントは尽きている(武内さんB本趣旨のひとつ)。そして、この礼法マニュアルについては、孔門志士派も決して否定はしなかった。なにより、彼等が南方大国の呉や越で強い立場でいられた武器の一つだからです、文化のコンテンツです。彼等はまずは周正統文化礼法の先生であった。彼等の礼法は中原では斉晏嬰のように「滑稽でお金の無駄遣い」といわれることはあっても、南蛮東夷の呉王夫差や越王勾践には効果があった・・かれらのコンプレックスを突くに有効だった。


原斉本は①原学而篇(根本思想)→②原郷党篇(礼法)→③原先進篇(弟子達)、と並んでいた、とみえるのです。③は大事な朋=弟子達知人達の発言や描写、の冒頭なのです。

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で、現伝先進の第一句は↓です。

子曰。先進於禮樂、野人也。後進於禮樂、君子也。如用之、則吾從先進。(先進10の1、#254)
(読み下し)

先進の禮樂におけるは野人なり。後進の禮樂におけるは君子なり。もしこれを用いるなら、吾は先進に従わん。

(通説和訳)

昔の人の礼楽は田舎者風であった、今の人たちの礼楽は紳士文化人風だ。どちらを使うかというなら、自分孔子は昔風がいい。
⇒先進は古代周、後進は孔子の時代、とも読めるでしょうが、孔子が若いころ魯衛で磨き南方呉越楚で礼楽も教授した孔子孔門十哲時代を先進、孔子が魯に引っ込み晩年時代、魯衛に残っていた孔門学窓派の洗練され都会風の礼楽が後進、と読みます。

⇒そして、この句が前記事の郷党篇最後の雌雉の話につづいていた。・・魯の学窓派が纏めた几帳面な原郷党篇のなかみ(ギンギン・カンカンなどだけではよく分からない=まじめに実技指導をしていたのでしょう)を、おそらく、ここでも茶化しているのです。・・「それもいいんだよ、だけど、孔子先生はこうも言っている。昔風がいい、南蛮東夷の呉越楚で教えた野人風がいい、ともいっていたよ。」です。

⇒もっと突っ込んで読むなら「礼儀作法の面では、先進志士派は野人だったなあ、今の後進学窓派は君子だなあ。しかし一緒に仕事をするなら、先進志士派と一緒がいい」も、あり、でしょう。


⇒雉の話も、三省とか三度辞退とかいう滑稽さに対して、野人孔門志士派たちは、孔子子路かどちらでもいい(通説の孔子ならなおおかしい)に雉肉を三度嗅がせて、食い時かどうか、の談義をさせているのです。*おかしいのです、論語も可笑しいところは笑っていいのです。

ジビエでは、雉は雄より雌が旨い、また「フザンダージュ(faisandage)と呼ばれる熟成を経て、肉が腐りかける寸前の最高に旨味が出た時に食べる。」そうです。・・子路孔子も「時哉時哉」=タイミングにこだわるはずです(笑い)。
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⇒そして、先進篇の第二句は、例の陳蔡同行者、なつかしいなあ・・孔門十哲リストです。・・話がすべてスムースに流れるのです。

子曰。從我於陳蔡者、皆不及門也。徳行、顏淵・閔子騫冉伯牛・仲弓。言語、宰我・子貢。政事、冉有・季路。文學、子游・子夏。 (先進10の2、#255)
⇒今まで触れることがありませんでしたが、ここでいう「徳行」こそ、呉越あるいは楚の野蛮国で、王や卿や大夫や士たちに、孔門流の礼法を身をもって教えた人たちなのです。さまざまな意味でこれが大事、だから(子路や子貢より)始めに持ってきているのです。

⇒むしろ気持ちは、今魯で難しい顔して塾を継ぎ先生面の曾子や有子などは「最も元気で行動した当時、うちら孔門志士派の正式メンバーではなかったんだよ。事実、孔子先生には当時を懐かしがり固有名詞名指しの句、もあるけど、曾子も有子もそこにはないよ。」です、斉本孔門志士派の主張です。結構子供じみた対抗意識というべきかもしれません。

(つづく)

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1569.郷党篇(礼行集)

1569.郷党篇(礼行):2011/6/14(火) 午後 0:17作成分再掲。

QT

郷党篇第十、です。

学而篇第一は孔子の根本精神を写したものがオリジナルであるのに対し、「郷党篇は孔子の(日常・礼法上の)行動を録し」たもので「禮経および禮記と大同小異な文章が多い」(武内さんB本)。
また、武内さんらは、論語中、学而篇と郷党篇が最も古く、また、この「二篇で完全な孔子言行録」とされます。・・「行」の意味を日常礼法という意味に限定して、ですが、racもこれに従います。

魯や周の朝廷大子夫の儀礼習慣他、各国の様子も知っていた孔子たちです、これがよいきれいと見たしぐさ等を整理して記録した。これらが後に「周礼」「礼記」「儀礼」と拡大整備されていく。

 

郷党篇は、原漢文で見る必要はないと思いますので、半読み下し半現代語で↓。
#236 孔子は郷党(日常生活)では恂恂(ポツリポツリと)と話し口を聞けないもののようだった。が宗廟朝廷では便便(すらすら)と語った、ただ謹み深かった。(郷党10の1)

#237 朝廷で下の大夫と言う時には侃侃(かんかん=理屈だって強く)、上の大夫には誾誾(ぎんぎん=中正行儀よく諌めるように)、君主がいるときには??(しゅくせき=謹直でゆったりと)で與與(よよ=補佐する)であった。

#238 君主に命ぜられて擯客接待時には、様子は勃(ぼつ=きりっとし)、足は?(かく=きびきびし)。起立列席しているときは、手を左右に置き衣の前後は?(せん=ゆったり)。小走りに進むに翼を広げたようだった。賓客が退けば必ず復命して曰く、振り返らなくなるまでも見送りしました、と。

#239 公門に入るには、鞠躬(きくきゅう=前かがみ頭を下げ)で容れられざるがごとし。立つこと門の正面を避け、行くに閾(しきい)を履(ふ)まず。上位の人とすれ違う時は、様子は勃(きりっと)、足は?(きびきび)、その言は口が不自由であるかのように。斉(もすそ)を摂(かか)げて堂に升(のぼ)るには、鞠躬(前かがみで頭を下げ)、気を屏(ひそ)めて、息(いき)せざる者に似たり。出でて一等を下(くだ)れば、顔色を逞(はな)ち、怡怡(いい=のびのび)たり。階(きざはし)を没(つく)して趨(はし)り進むに、翼(つばさをひろげた)ようだった。その位に復(かえ)りては、??(謹直ゆったり)していた。

#240 圭(けい=祭玉器)を執るには鞠躬(きくきゅう=前かがみで頭を下げ)、重さに勝(た)えざるが如くす。圭を掲げるには揖(ゆう=拱手)の如くし、下げるには授くるが如くす。勃(きりっとし)とし戦(おのの)く色あり。足は??(しゅくしゅく=謹直で)循(したがう=引きずる)如し。享礼(きょうれい=公式行事宴会?)には容色有り。私覿(してき)には愉愉(ゆゆ=くだけて楽しそう)たり。

#241 君子は紺?(かんしゅう=紺色や栗色)の衣や襟や縁どりを身に着けず飾りとしない。紅紫は褻服(せつふく=平常着)としない。暑い時は袗(ひとえ)の??(ちげき=麻?)で、下着は見えてはいけない?。(寒い時には?)緇衣(しい=黒い服)には羔裘(こうきゅう=羊の毛皮)、素衣(そい=白い服)には麑裘(げいきゅう=鹿の毛皮)、黄衣には狐裘(こきゅう=狐の毛皮)を上着のコートとする。褻裘(せつきゅう=毛皮のコート)は丈は長く、右袂(うべい=右のたもと)を短くす。必ず寝衣は別にする、長さ一身有半。狐貉(こかく=狐や狸)の厚手のもので休息する。喪が過ぎればアクセサリを佩(お)びていい。帷裳(いしょう=礼服)以外は裳すそにひだはとらない。羔裘(こうきゅう=羊の皮衣)と玄冠(げんかん=黒い冠)は弔問に使わない。毎月一日には必ず朝服(ちょうふく=礼服正装)して君主に挨拶に行く。

#242 斎(さい=祀りやものいみ)するには必ず明衣(めいい)で麻布製、必ず食を変える、休息場所は必ず別に設ける。
#243 主食(コメ・粟など)は精穀したものがよく、膾(かい=なます)は細いのがいい。すえて味が変わった主食や、くずれた魚、ふるい肉は食べない。色の悪いものや悪臭のものは食わない。料理しそこなったものや時期はずれのものは食わない。割くこと正しくないもの、その醤(しょう=ソース)が適切でないものは食べない。肉は主食以上の量を食べない。ただ酒は量なし、乱に及ばず(=乱れてはだめ)。市場で売っている酒や脯(しほ=干し肉)は食べない。薑(きょう=はじかみ)をのけて肉だけ食べない。食べ過ぎない。祭りで分配された肉はその日のうちに処分する。祭肉は三日以内に、三日を超えたら食べない。食事時に喋らない。寝(いねては=ベッドに入ったあとは)喋らない。平常と同じ蔬食(そし=主食)菜羮(さいこう=野菜汁)瓜(か=果実)でも祭れば必ず斉如(せいじょ=恭しく丁寧に)粗末にしない。

#244 「席正しからざれば、坐せず。」 =座布団がきちんとしていなければ座らない。

⇒当時は、椅子ではなく日本流の座布団が主流だったらしい。歪んだり折れたりまっすぐになっていなかったり、・・ということで、ここは行儀作法上の話で他に含意はない、らしい。

#245 人々と飲酒宴会時には、杖(じょう)する者(=目上の老人)が帰ってから引き上げる。儺(だ=鬼やらい)が回ってきた時には正装して入り口の階段で起立して待つ。
#246 人を他邦(たほう)に訪問させるときは、再拝してこれを送る。康子が薬を饋(おく)ってくれた、拝してこれを受けたが「丘(きゅう)、いまだ達せず。あえて嘗(な)めず。」と申し上げた。

⇒後段は突然の季康子からの薬の話です・・丘(孔子)老年で魯の実力者季康子が好意でくれたのだろうが、贈り物をもらっても口にしないときの、礼にかなった言い訳の仕方、らしい。

 

#247 「廐(うまや)焚(や)けたり。子、朝(ちょう)より退く。曰く、人を傷(そこな)えるか、と。馬を問わず。」

⇒これも有名な句ですが、こんなところにあります。


#248 君主から食を賜う時には必ず席を正してまずこれを嘗(な=試食)む。君主から腥(せい=生肉)を賜う時は必ず煮炊きして先祖にも供える。君主から家畜を賜う時には必ずこれを畜う。君主の食事に侍(じ)する時は君主が(一箸とってなど)祭ればすぐに食べる。疾(しつ)ありて君主からお見舞いを受けたら東枕とし寝具の上に朝服と帯を揃える。君主が命じて召せば駕を俟たずして行く。

⇒なかほど、「侍食於君、君祭先飯」とは、先に食べろ、毒見せよ、ということ(吉川さん)。

#249 「太廟に入りて、事ごとに問う」 =宗廟に入ったときには事毎に質問せよ。

⇒#55の前段と同文。・・孔子が若い時魯の宗廟に入った時、そうだった。孔子は礼の物知りといいながらすべて人に聞いていた、と人は悪口を言った。これに対して孔子がこれこそ禮、と答えた、という逸話。

#250 朋友が死して帰する所が無ければ、(孔子)曰く「我が家で殯せよ=通夜しましょう」と。「朋友の饋(おくりもの)は、車馬と雖も、祭肉に非ざれば、拝せず(=親しいので当たり前に受け取った)」=朋友は財を通ずる義あり(鄭玄)らしい(吉川さん)。

#251 寝る時は死体みたいにならない。休息しているときに身づくろいしない。斉衰(しさい=祭り物忌み)する者にあえば親しい人でも身を正す。礼服を着た人と瞽者に会えば親しい人でも顔かたちを改める。喪服や喪章をつけた人には式(車上からの横棒に捕まって会釈のが式)する。盛饌(=もてなし)にあえば改まって挨拶する。迅雷風烈には必ず居ずまいを正す。

#252 馬車に乗る時には必ずまっすぐ立ってつり革を持つ。馬車の中では内顧(ないこ)せず(振り向かない)、早口で喋らず、指で方向を示すことをしない。

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⇒以下が

郷党篇18句の最後。意味不明、らしいです・・
これだけ、起しておきましょう。
#253 色斯舉矣、翔而後集。曰。山梁雌雉。時哉時哉。子路共之。三嗅而作。(郷党10の18)

(読み下し)

色あればここに挙がる、翔けてのち集まる。曰く、山梁の雌雉(しち)、時なるかな時なるかな、と。子路これを共にし、三たび嗅いで作る。

(宮崎さん注訳、要旨文責rac

前段は古詩との徂徠説に即し、「(雉の用心深さを歌い)気配を感じて舞い上がったが空を一回りして後、降り立った、とある。孔子はこれを説明して、雌雉に時期が大切だ、と教えた詩、であると。子路が雌雉の肉を供した時のもので、このあと、子路の好意を無にせぬため、三度かいだ後に席を立った。」(「作」を立ちたりき、と読まれる)。

(朱子、要旨文責rac)

・・人が機をみて審かに拠る所を選ぶのもこのようにすべき。・・この上下には必ず欠文あるのだろう。姑く聞く所を記して知者を待つことにする。

(吉川さん注訳、要旨文責rac)

大変難解・・ここまでと性質が違う。・・朱子は不完全な一条というが正直なところ。「・・孔子は複雑な気持ちで子路の差し出す雉の料理を受け取ったがもとより食べようとせず・・子路の好意をむげに退けもせず、皿の中の雉を三度かぐとそのまま立ち上がった。」以上大体古注・鄭玄の説・朱子のひとまずの解釈。朱子は別の説として「嗅」は誤字で子路の手をすり抜け三度羽ばたき逃げたとも。・・上論はこの謎のような章で終わっている。


rac超新説

「雉は気配があれば飛び去り様子を見てまた集まってくる。孔子は言った「山の雌雉よ、(飛ぶも戻るも食べられるも)大事なのはタイミングだぞ」と。子路がそこにいた。子路は三度かいだ後、料理を作った。」

rac的には、#252までが殆ど、ダメダメ、こうせよああせよ、なので、ここは、斉本系(孔門志士派)のいたずら?句が入っていた、と愉快に考えます。つまり、(通説のいう)腐っていたでなく、「子路が三度臭いをかいでああいい匂い、丁度食べころ。孔子先生、料理を作るから一緒に食べましょう。」*と解したい。・・「三嗅而作」であって「三嗅而去」ではないし、主語も孔子ではなく子路とみるのが妥当でしょう。

⇒諸先輩の生真面目深読みには殆ど噴出します(笑)、吉川さんの「性質が違う」はその通りで、斉魯両本の掛け合いという発想がないと理解できない+グルメの知識*が必要、というところ。朱子のいう「待たれた知者」というほどでもないが、rac注解が二千年来!の唯一の正解でしょう(笑)。

rac的にはこんな細部どうでもいいが、次の先進の第一句も同様のいたずら句?とみますのであわせご参照。斉本系が魯本系にチャチャを入れた部分の残骸がいまに残っているように見える、むしろこういう柔軟な視点、この仮説が重要、と思うのです。
ジビエでは、雉は雄より雌が旨い、また「フザンダージュ(faisandage)と呼ばれる熟成を経て、肉が腐りかける寸前の最高に旨味が出た時に食べる。」そうです。・・子路孔子も料理し時=タイミングにこだわるはずです。次記事ボトムご参照。
http://majin.myhome.cx/pot-au-feu/dataroom/foods/meats/gibier/gibier.html

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なおもう一点、学而篇「#3巧言令色、鮮矣仁。」は冒頭学而篇ではいかにも座りの悪い一句でしたが、ここ郷党篇では外交交渉マナーもいろいろ言っており、もともとはこのあたりにあった一句と考えます。参考まで。

 

(つづく)

 

1568.学而篇の子夏1句と総括

1568.学而篇の子夏1句と総括 :2011/6/14(火) 午前 10:19作成分再掲。

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学而篇の残り一句、

子夏の1句
です。
子夏曰。賢賢易色。事父母能竭其力。事君能致其身。與朋友交言而有信。雖曰未學、吾必謂之學矣。(学而1の7、#7)

(読み下し)

賢を賢として色を易(か)え、父母に事(つか)えては能くその力を竭(つく)し、君に事えて能くその身を致し、朋友と言を交えて信あらば、未だ学ばずと曰うと雖も、吾は必ずこれを学びたりと謂わん。

(通説的和訳)
賢人から賢を教わって変化成長し、父母に一生懸命仕え、君に身を挺して仕え、朋友との約束をきちんと守るなら、(その当人が)学んでいないといっても、自分に言わせれば、それは学んだ=既に学を身につけているのだ、と間違いなくいう。

⇒子夏の意図は二つあります。賢・孝悌・忠・信とはなにかその本質を分かり易く一言でいうこと、学の本質は(座学勉強というより)実践であること、の2点です。
⇒おそらく、有子や曾子の追加分を見て言葉が抽象的で分かりにくいと見た、「学」を有子や曾子は枉げあるいは誤解している、と思った。二人に比べれば、原孔子を知っていると自負した子夏なりの要を得て簡潔な補足説明です。・・それでも「一道・一貫」(学窓派の魯の曾子は勝手に忠恕と解し(#81)、志士派子貢にはアウンの呼吸で一貫のみ(#381))に触れず、上記一文で言えば「君」といってしまったところ、の二点は孔子根本からは外れた、とみますが(後述)。

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だから以上、数回分・・

ここまで学而篇について史的成立経緯を「想像」総括しておくと


①原学而篇=冒頭篇は、もともと孔子の根本理念を述べたものであった。学=実践=就有道而正=楽・悦・好=君子、治国の要諦5、若者の為すべき8、君子のありかた5、で尽きていた。

②これは、孔門学窓派にも孔門志士派にも共通して通用するものであった。
(=志士派は学習を現実政治改革の実践、学窓派は学習を礼法の実践、と読んでまあ妥協しあっていた)

孔子死後、孔門学窓派の、できのよくない曾子や有子らが師匠格となり、魯本論語を纏め始めたが、第二篇以下を纏め作るならともかくも、冒頭篇にまで自分達の句を挿入した。

④有子曾子は余りに理解してないと思ってポイントのみを(孔子に及ばざると評された生真面目で控えめな人にかかわらず)子夏が自分の1句を加えた。・・子夏の一文は有子曾子の追加句を見た後の子夏の追加と見ます、ですから魯本でのこと、です。・・しかし孔門学窓派の愚かさには就いていけず、去り西方魏文公に仕える。

⑤孔門志士派は学窓派的動きにどこまで関心あったか分からないが、③の孔子理解の低さと改竄に驚いて、しかたなく、冒頭、孔子の8句(5句)に加えて、子貢句を末尾に足して、斉本冒頭篇、とした。これには有子・曾子の句は入っていなかった。・・斉でのことですが案外まだ子貢存命中かもしれません、子貢のあの2句を選べるのは子貢しかいない気もしますので(笑)。

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1567.学而篇の子貢2句

1567.学而篇の子貢2句 :2011/6/13(月) 午後 1:47作成分再掲。

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 学而篇中の

子貢関連2句です。有子・曾子とは違って、変な自説を披露するのではなく孔子の個性を補足説明するだけ
です。いかにも如才なく孔子を尊敬することひとかたならぬ子貢らしい、印象です。

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子禽問於子貢曰、夫子至於是邦也、必聞其政。求之與、抑與之與。子貢曰、夫子温良恭儉譲以得之。夫子之求之也。其諸異乎人之求之與。 (学而1の10)

(読み下し)

子禽(しきん)子貢に問いて曰く「夫子(ふうし)のこの邦(くに)に至るや、必ずその政(まつりごと)を聞く。これを求めたるか、抑(それと)もこれを与えたるか。」

子貢曰く「夫子は温・良・恭・倹・譲を以てこれを得たり。夫子のこれを求むるや、その諸(もろもろ)人のこれを求むると異なるか。」

(通説)

子禽が子貢に聞いた「孔子先生は各国にいかれたが、必ず各国で政治に与った。自分からそうされたのでしょうか?」

子貢が答えた「先生は温・良・恭・倹・譲な方だった。だから自ずと政治にかかわることになった。先生の政治参画の場合は、他の人が自分から求めてそうするというのとは諸々違っていた。」
⇒自明でしょう。通説読みが妥当かどうか?そして論語冒頭のこの子貢の証言を無視して、孔子は14年の周遊諸国では政治に容れられることなく浪浪の旅をした、というのが、これまでの儒教の常識、のようです。

論語論語といいながら、見たいものしか見ず、読みたいようにしか読んできていない、典型と思います。よく知りませんが、おそらく子貢のこの言葉は嘘のでっち上げ、というのが多くの史家や儒家のお立場なのでしょう。

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子貢曰、貧而無諂、富而無驕。何如。子曰、可也。未若貧而樂富而好禮者也。子貢曰、詩云。如切如磋如琢如磨。其斯之謂與。子曰、賜也。始可與言詩已矣。告諸往而知來者也。(学而1の15、#15)

(読み下し)

子貢曰く「貧しくして諂(へつら)うこと無く、富みて驕(おご)ること無きは、何如(いかん)」。

子曰く「可(か)なり。未だ貧しくして楽しみ、富みて礼を好む者に若(し)かざるなり。」

子貢曰く「詩にいう「切するが如く磋するが如く琢するが如く磨するが如し」と。それこれはこの謂いか。」

子曰く「賜や、始めて与(とも)に詩を言う可きのみ。諸(これ)に往を告げて来を知る者なり」

(通説)

子貢「貧しいけどへつらうことなく、富んでもおごることがない、どうでしょう?」

孔子「それはそれでよい。だが、貧しいけどなお楽しみ、富んでなお礼儀正しい、こっちが上だな。」

子貢「詩経に切磋琢磨というのはこのことですか?」

孔子「子貢や、ようやくともに詩経を語れるな。撃てば響くだな。」
⇒ここには朱子が言うように子貢の自慢話の面もあります。また、切磋琢磨ってそういう意味か、ちと外れているだろう、とも思いますが。

⇒しかし言いたいのは前段です。「理想に燃えて政治志士活動などをやっていると、まずはお金と縁がなく、貧乏になる。それでもいいではないか、貧しくとも楽しくてしかたない。もっとも金持ちになっておごることなくさらに礼儀を尽くすというのもいいけどな。」の気持ちでしょう。

⇒さらに、読み込めば、ここは子貢への皮肉もあります。つまり、おまえみたいに金持ちになって驕ることなく礼儀も尽くす、たいしたもんだ。だけどな、・・孔子は決して豊かではなかった・・おれはお前と違って貧しいけど楽しんでいる、楽しいのだよ、という孔子の自慢話です。子貢を面前で皮肉ってお前は本当に楽しいか、とも聞いています。

・・切磋琢磨はどうでしょう、この前段とはつながってはいなかった、別句でしょう。孔子と子貢、この二人の間が切磋琢磨=丁々発止が子貢には楽しく懐かしかった。前段の句は孔子先生に一本取られたなあ、それで切磋琢磨の句をくっつけることに違和感がなかったのでしょう。

⇒なお、吉川さん本によれば日本の多くの写本は「貧而楽道」とあると、こちらのほうが良い。

ここにも「楽」があり、しかも道を楽しむ、と。孔子には、政治思想志士運動(=一道)が楽しい、悦ばしい、好もしい。そしてそれはそのまま学・朋・人を知ることであり、これはまた楽・悦・好なのです。・・生き生きしています。もっとも大事なところです。

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⇒上記

子貢の2句は実践的で楽しげで生き生きしています。有子や曾子のそれが(それはそれでいいのですが)理屈で学窓的で楽しいかどうか分からない、のに比べて、全く違う。

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最後に、

学而篇の最後の一句、子夏の句
を見ておきましょう。
(つづく)

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1566.学而篇の曾子2句

1566.学而篇の曾子2句 :2011/6/13(月) 午前 11:27作成分再掲。

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有子3句は前記事どおりですが、

学而篇中の曾子2句
についても見ておきます。

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曾子曰、吾日三省吾身。爲人謀而不忠乎、與朋友交而不信乎、傳不習乎。(学而1の4、#4)

(読み下し)

吾、日に三度わが身を省みる。人のために謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習わざるを伝えしか。

(通説)

曾子自身、自分は日に三度自省することにしている。人のために謀って忠でないことはなかったか?朋友と交わって信でなかったことはないか?自分でちゃんと分かっていないことを伝えたなかったか?
⇒・・「習」に拘っておけば、後の儒家の多くも「ちゃんと習熟していることだけを伝えたか、知りもしないことを教えたりはしなかったか」と訳されます。

⇒多分、曾子はここでは「習」を「習う、おさらいする、習熟する」という意味で使っています、・・孔門志士派の「習」が羽ばたき実践するという強い意味をもつことは、曾子は百も承知、それを緩める動機、つまり論語冒頭のここで「習」の字を置いて緩和していく・・かなり意図的、とみえます。

孔子の意図を枉げています、こういうことも含めて孔子曾子を「魯」*と見抜いたのだと思います。

*ここでこれ以上言いませんが、魯は朱子も含め魯鈍と読みますが必ずしもそうではなく魯の国の魯=小者でぐずぐずしてずるくて、でも自分には懐かしい生国という含みも感じます。・・孔子は魯鈍といったわけでなく魯の一語ですから(#270)。


⇒念のため、原孔子や孔門志士派流にいうなら「実際できもしないことを伝えなかったか・教えなかったか」となります。が、曾子は本来学窓派で意図的に意味を枉げていますから、ここは後の儒家の読み方でいいのだと思います。・・孔子本来あるいは孔門志士派の厳しさは既にない、のです。

⇒なお、冒頭近くで「吾」というのは、三省との組み合わせで謙虚さを示すものと通常読みますが(もちろんそれでいいのですが)、他方で変な自己主張であり正直言えば気になります。・・孔子は学而篇ではこういう自己主張自己宣伝?型の発言は一切していません(・・父のところ#11がやや個人的でノスタルジックではありますが、笑い)。

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曾子曰。愼終追遠、民徳歸厚矣。(学而1の9、#9)

(読み下し)

終わりを慎みて遠きを追えば、民の徳、厚きに帰せん。

(通説的和訳)

人の終わり(死)を慎んで送り先祖の祀りを欠かさずにすれば、民の徳も重厚なものとなっていくものだ。
⇒これを上記のように訳してしまえば、孔子の根本主張ではなく、曾子の思想、というべきでしょう。

⇒あえて原孔子か孔門志士流に訳するなら「(上に立つものが)いろんな行為や仕事をきちんとけじめをつけて遠い理想を追い続けるなら、民の徳も重厚なものになっていくのだ」・・

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⇒まあこれだけではなんともいえませんが、冒頭篇の重要性を知っていた有子も曾子も各もっとも大事と思うことを記したに違いありません。

後世の儒家は有子を「礼法派・客観派」、曾子を「忠恕派・内面派」ともいって違いを際立たせる
ようですが、

⇒原孔子が原冒頭篇では言わなかった点(用語)に注目すると、有子は上下・乱和・礼美・仁をいう、より安定志向で原孔子からはより遠い印象です。曾子は、原孔子の意図を微妙に外してしまっていますが、忠信・朋友・習・民、をいう点で孔子の用語は継承している、ように見えます。

⇒ここで疑問なのは、孔子の後継者が議論になったときの、孟子司馬遷の証言です。・・孟子司馬遷も述而不作のひとと信じますから、当時それぞれ何らかの伝承があったから書いたのでそれなりの真実、と見るから、ですが・・
つまり、

子夏・子游・子張は間違いなく孔子の陳蔡に同行しており孔門志士派の系譜です(但し三人とも当時十代の少年でメッセンジャーボーイ格、です)。そのかれらが、孔子がコメさえしなかった有子をその姿立ち居振る舞いが孔子に似ている(=ここには内容は全く違うけど、という含みがあります)という理由で孔門の師匠としようとした・・そして曾子はこれに反対した、らしい。・・それぞれ、どうしてなのか、です。
⇒・・この疑問は「宿題」として、先に行きましょう。
(つづく)

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1565.学而篇の有子3句

1565.学而篇の有子3句 : 2011/6/12(日) 午後 0:28作成分再掲。

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先を急ぎたい気持ちもあるのですが、論語を読もうなどと奇特な思いになることもめったにないでしょうし、また、学窓派を悪しざまに言うことは本意でない(伝統儒学は立派な世界遺産です)のですが、このままではあまりに孔子志士派が気の毒という思いの方が強く、入り口の大事な学而篇ですので、為念、書いておきます。

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有子曰。其爲人也孝弟、而好犯上者、鮮矣。不好犯上、而好作亂者、未之有也。君子務本。本立而道生、孝弟也者、其爲仁之本與。(学而1の2、#2)

(読み下し)

そのひととなりや孝弟にして上を犯すものは鮮(すくな)し。上を犯すを好まずして乱をなすを好むものは未だあらざるなり。君子は本を務む、本立ちて道を生ず、孝弟はそれ仁の本たるか

(通説的和訳)

ひととなりが孝悌(親を大事にし目上を敬う)で上を犯すものはまずいない。上を犯すことを好まないもので乱をなすことを好むものはかつていない。君子は根本を大事にする、根本がしっかりしていれば道が生まれる、孝悌こそが仁(最高美徳・人倫道徳)の根本といえよう。
⇒#6で孔子は、「弟子、入則孝、出則弟」以下=「若者は家庭では孝、社会では悌」以下の若者の有るべき姿をいい、#8と#14で君子を語り「君子」の最終目的を「就有道而正」とし、「好学」と主張しています。

⇒#2は、孔子のこの3本の句の「間違った」コピーで、有子なりの理解なのです。しかも「上下」とか「乱」とか孔子が使わなかったキーワードを持ってきている。一方孔子の「正」や「学」というキーワードは飛ばしてしまった。

⇒さらに僭越にも、自分の句を第2句にもってきた。・・だから、後世のアホ儒家はむしろ、有子(曽子らの冒頭)学而篇句を軸に儒教を組み立てた、というより、それは有子の儒教そのものなのです。漢の安定した帝国管理志向社会にはいったから、改めてこんなものが通用し定着した。(そして今に至るまで、東アジアの多くは表面的な体制国家・民主国家云々に関係なく社会的伝統的心理的にこの呪縛下にある・・)

⇒・・はっきり言って、これは孔子儒教ではない、のです。孔子儒教の根本は前記事8句=原学而篇、で、完璧でそれより大きくもなく小さくもないのです=尽きている。そこに違うものを挿入したのが、有子です。

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⇒いちど恐れ多いことをやってしまえば再犯は容易です、孔子子貢の「春秋」を変造し「論語」を捏造した。有子は孔子の「根本(=孔子も似て非なることをあちこちでいうが孔子の根本ではないのです。念のため)」世界では言っていないことを有子曰くとして挿入しつづけます。
有子曰。禮之用、和爲貴。先王之道、斯爲美。小大由之、有所不行。知和而和、不以禮節之、亦不可行也。(学而1の12、#12)

(読み下し)

礼の用は和を以って貴(とうと)しとなす。先王の道も斯れを美となす。小大これによるも行われざるところあり。和を知りて和すれども礼を以ってこれを節せざれば、また行うべからざるなり。

(通説)

礼を実践するには和を尊重すべきである。先王の道も和を尊重することで美となる。大小の礼は和を尊重してやればいいのだがそれだけでは十分でない。和を尊重しつつも礼のもつ節度が加わって完全な礼となる。
⇒これは孔子自身は原学而篇では一言も言っていない内容を、根本であるかのように、第一篇学而に持ってきました。・・有子の礼や和の重視の姿勢です。

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⇒有子にもう一句あります。
有子曰。信近於義、言可復也。恭近於禮、遠恥辱也。因不失其親、亦可宗也。(学而1の13、#13)

(読み下し)

信は義に近ければ、言を復すべきなり。恭は礼に近ければ、恥辱を遠ざかるなり。因はその親(しん)を失わざれば、また宗(そう、とうとぶ)とすべきなり。

(通説)

信(約束)が(その内容が)正しいことなら、言を繰り返(し実現)すべきである。恭(恭しくすること)が礼にかなっているなら恥ずかしいことはない。姻族であっても親しい人がいるなら宗族として付き合うべきである。

⇒人との付き合い方をいっている、らしいです。孔子の言葉と比べてなんと形式的概念的で魅力ないか!・・孔子の#1#3#6#14と比較すると、死んでいます。

⇒「因不失其親亦可宗」はいろいろ訳があるようです。上記通説内は六朝期の説を踏まえたrac読みです、念のため。

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有子=有若について
上記有子=有若、は、司馬遷「仲尼弟子列伝」によれば、孔子43歳年少といいますから、曾子(46歳年少)・子張(48歳年少)そして十哲の中の子夏(44歳年少)・子游(45歳年少)らと同世代、孔子の薫陶を直接受けた最後の世代です。・・子夏(晋の温出身とも)・子游(呉出身)・子張(陳出身)は陳蔡南下中も同行していたわけですが、有子と曾子は孔門学窓派で同行せずあるいはその後の入門です。

あるいは春秋左伝哀公8年に呉魯戦時魯の決死隊三百のなかに有若の名があり、子路に近く年齢も孔子の13歳年少で戦士であった、ともあります。これは多分別人です。

孟子(滕文公上)には有子は姿振る舞いが孔子に似ていたので後継者にしようと子夏・子游・子張が応援したとあり、相当な年配であったとしたほうがいい、但し、これには曾子が反対した話を伝えています。

また司馬遷は、上記論語中の#12#13の2本のセリフを引いた後、孔子なら答えたようなことに有若は答えられず黙然としてしまった、弟子が起立して「有子よ、その席を避けたまえ、そこは君が座るところではない」といったと、記して〆ます。

有子はこの後継者説と論語で出てくるから名が知られるだけで、孔子も直接対話・言及した記録(節)はありません。曾子のほうは、孔子から「魯(鈍)」といわれただけまだマシで、孔子にとっては曾子以下の存在感だった可能性が強い、のです。

孔子は悪口も含めて豊富な弟子評を残しており、弟子のみならず人を見る眼は極めて確かだった、とみます。はっきり言って、有子は孔子には歯牙にもかけられない弟子だった、そして司馬遷孔子後継者などとんでもないと思っていたらしい、ことは記憶しておいていい。

なお、故意か偶然か、知りませんが、有若の字(あざな)は子有、とするもの(「孔子家語」以降でしょう)あり、「子有」なら、孔門十哲で季氏家宰の冉有(ぜんゆう)=名は求で字は子有、と同じです。こういう紛らわしさも伴う人です。
以上、念のためと参考まで。

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1564.論語を読む(8)学而篇の成立経緯と本質

1564.論語を読む(8)学而篇の成立経緯と本質 :2011/6/11(土) 午後 2:04作成分再掲。

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B本武内さんの「論語之研究」(昭和14年)は伊藤仁斎の上下10篇ずつ論を踏まえ戦前戦後の一時期一世風靡したらしく、

「上論が古く正編、うち学而第一と郷党第十が最も古く、その他8篇は遅れ、下論10篇は続編」
とされた。それで、日本では、岩波文庫旧版「論語」は武内さんの上論10篇のみ、またその時代の影響も有ったらしい桑原さん本Fも上10篇のみ、を紹介されます。

さらに

「学而篇には孔子の「言」を録し郷党篇にはその「行」を記して2編で完全な孔子言行録になっている」(B本p232)
と武内さんは指摘されます、・・粗い指摘ですが、その通りとracも読みます。

しかしながら、

学而篇の成立経緯については、rac読みでは、
孔子の句のみではじめ自己完結していた・・想像するに、孔子塾に掲げてあった標語か看板のようなもので、孔子本人も認知した8本ではないか。

②この8本は、子貢ら孔門志士派にも、有子ら孔門学窓派にも、共通して通用するものでもあった。

③有子曾子系の直弟子孫弟子世代の学窓派は、この8本に、孔子没後、自分達の有子や曾子の句を加えて、学窓派の教科書冒頭=子貢の2本のない現伝学而篇の中身相当、としていた。そして、行いの面(学窓派の行動とは要は礼法の実践です)については、現伝郷党篇の中身相当をまとめて学窓派の教科書としていた。これが魯本のはじまり・・上論10篇が出来て加わっていく。

④孔門志士派はそんな学窓礼法活動にどこまで興味があったか怪しいが、あまりに後の儒学=悪い意味での修身道学士風になっていったので気になって・・

⑤子貢らの発言を学而篇他魯本10篇各所に適宜挿入追加、他方で、子貢系孔門志士派が持っていた人物評論的事情説明的な孔子関連言行録を、先進篇第十一以降として作った。これが斉本系で、修正魯本とは別に下論10巻を追加的に持っていた。

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いずれにしても、現伝学而篇16句は孔子8本に加わって、有子3本・曾子2本・子貢2本・子夏1本ある。子貢の2本は孔子を語っているのに対し、あろうことか他は孔子をまねして自説を述べているもの。


まあ読み方はいろいろだろうが、

もともとの冒頭(=原学而)篇は孔子の基本哲学を孔子自身8本で自己完結的に表現した立派なもの。

あとの有子・曾子・子夏の句はなくても一向に問題がない、むしろ文章として品格を落とし構成の緊張感を弛緩させているだけ、です。

子貢の2本は、孔子にかかわるもので追加情報と認められるが、あとの孔門学窓系3人分はメッセージとしても他とダブり、品も奥行きもなく、ないほうが美しい。子貢の2本も内容はともかくないほうが美しい。

だから、逆に言うと、

孔子の8本は孔子が認知して最も古くからあったもの、(原)孔子そのもの、とみえるのです。孔子の文章はそれ以上要約できない簡潔なものですがあえて

学而篇の孔子8本を一覧整理すると(前3記事参照)
#1 学・朋・不知・君子=学んで朋とともに行動実現せよ

#3 巧言令色=悪いのがいるから特に巧言令色には気をつけよ

#5 治国=国を治める5ポイント

#6 弟子(ていし)=若者のやるべき8ポイント

#8 君子=人(当時なら諸侯諸卿大夫士)としてやるべき5ポイント

#11 父

#14 君子・有道正・学=一道がある

#16 不知より知人=知られざるより人々を知れ

⇒#11父だけはファザコンの郷愁のようにも見えますが、あとはすっきり頭が整理されています。孔子は明晰な人だったとみえます。

⇒前記事通り、初句#1と末尾2句#14#16はきちんと呼応しています。

⇒数も5と8しかない(もともとは8句でなく、#3巧言令色と#11父はなく#14と#16は一本で、5句だったかも)・・完璧なのです。
(つづく)

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