1577.一を以って貫く:曾子と子貢

1577.一を以って貫く:曾子と子貢 :2011/6/20(月) 午後 1:03作成分再掲。

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 承前。少しダブりますが・・
そういう目で曾子を見れた一人が、孔子だった。孔子が一貫を語ったのは、論語による限り、子貢以外では曾子だけです。その句です。里仁篇第4です。

子曰、參乎、吾道一以貫之。曾子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣。(#81、4の15)
(読み下し)

子曰く、参(しん)や、吾が道は一(いつ)以て之を貫く。曾子曰く、唯(い)。子、出ず。門人問いて曰く、何(なん)の謂(い)いぞや。曾子曰く、夫子(ふうし)の道は、忠恕(ちゅうじょ)のみ。

(現代語訳)

孔子曾子にだけ呼びかけて「わが道は一貫だ」。曾子「分かっています」。孔子が去り門人達があつまって「どういうことか?」。曾子孔子先生の道は忠恕のみ」。

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さて、極めて面白いところですが・・
斉本ではこれに対抗して、子貢を持ち出し、この曾子の発言や理解をまたまた否定している、と読みます。

子曰、賜也、女以予爲多學而識之者與。對曰、然、非與。曰、非也、予一以貫之。(#381、15の2)
(読み下し)
子曰く、賜(し)や、女(なんじ)は予を以て多く学んで之を識る者と為すか。対えて曰く、然り。非(あら)ざるか。曰く、非(あら)ず。予(われ)は一(いつ)以て之を貫く。

(現代語訳)
孔子が子貢に呼びかけて、「おまえは自分孔子を多くを学んで学を識る者となすか?」こたえて「そうです。違うのですか?」。孔子「自分は一をもって学を貫いている」。
⇒そしてここであわせて確認すべきは同じ霊公篇第15の、

子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎。子曰、其恕乎。己所不欲、勿施於人。(#402、15の23)
(読み下し)
子貢、問いて曰く、一言にして以て終身、之を行うべきもの有りや。 子曰く、それ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。

(現代語訳)
子貢の質問「一言で終身行うべきものはあるか?」。孔子「それは恕(=思いやり)か。己の欲せざるところは人に施すなかれ。」

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これをどう読まれるか?

①伝統通説的には、この3本をみんな一緒、孔子が一道一貫を忠恕と言っている、と読む向きもあるようですが、そんな粗いことではいけません(「微言大義」笑)。・・違います。

曾子#81には、「わが道」は一貫、という。そしてそれを忠恕と解したのは曾子であって、孔子は答えを言っていない、留保している、と読む。

子貢#381は、「多学識学」を貫く、一が自分(孔子)にある、といって、これには孔子も子貢もそれが何か言っていない。

子貢#402は、「終身行」について、ここは孔子自ら、恕=己の欲さざるところ人に施すなかれ、というのみ。

三本それぞれ微妙に違うと読む。孔子自身は、一貫一道については、結局何も発言していない、のです。終身行うにあたって一言でいえばそれは恕、といったまで、です。

「述而不作」、漢字を正確に追う限り、そうでしょ?(笑)


③ここも史的順序としては魯本の#81が先に曾子有子の塾から、出てきた。孔子は実は何も言っていないのに、周りを(曾子系孫)弟子(複数と感じます)に囲まれた曾子が、つい自分の理解で、忠恕のみ、といってしまった。

吉川さん(上p99)は「忠と恕、ただこの二つ、忠とは自己の良心に忠実なこと、恕とは他人の身の上を自分のことのように親身に思いやる、と読むのが、普通の読み方」とされます。

これはおかしい、数が合わない、一つが二つになっている(笑)。後世には忠義(君に忠の忠)と恕(人への思いやり)に分かれていくから、これに引きずられて、忠義の忠では(封建君主的で)おかしい、この忠=自己の良心に忠実だ=古義も曾子の使い方もそうだ(#4)=真心だ、まではよかったが、忠と恕はふたつのままに、さすがの吉川さんの頭の中にある。・・が、これも多分違います。

曾子の意図は、忠=恕の一体、人の真心とは人を思いやること、という思いがある、自分と他人(主客)を分けていない、自然道教的曖昧さもある(笑い)、だから一つ。・・そう読まないと、曾子は1と2の区別もつかないアホということになりますゾ(笑)。

④ですが、これまた残念ながら、曾子の理解であって、孔子がそうとは確認してはいない。曾子はそう思って孔門を運営したのでしょうが(そしてこれが魯の学窓派の儒教原点になる)、・・正確に言えば、孔子の真意は論語文字では不明のまま、です。

⑤子貢は#81を見て、魯の曾子はまたアホを言っていると思った・・それで対抗して公表したのが#402。

つまり「孔子は忠恕などとは言わなかった。近いところを言えば、終身行を一言で言えば、恕、とはいったが。忠恕などと忠の字はなかったよ。曾子のアホは君に忠などといいかねない男だからなあ。釘を刺さねば。」が子貢の思い、でしょう(笑い)。

⑥子貢は重ねて、一貫一道については、孔子は結局何も明言していない、と念を押す、それが#381。しかもここには「道」という言葉はない。多くの「学」識を一本貫いているものを予(自分孔子)は持っている、というだけ。

ここまでです。

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子貢の見方:学の一貫=実践=理想社会のこの世での実現(=学而篇筆頭1-1)。
孔門志士派としては、曾子ら学窓派とちがって、諸国遊説(と通説的に言っておくが)に長く行動をともにした。そして、いくつもの難にもあい、五大国調略もやり、かなりのことを現実にやったのが孔子と孔門志士派だったと身をもって知っている。・・それは忠恕の一言で済むような修身的道学士的身近なことではなかった。

それは間違いなく、呉王夫差の人物と軍事力を見込んで支援し、中原中華に和平と周朝的秩序を復元すること、と実感できていた。

#381を注意深く読めばふたつの之=学で、孔子は「学」を貫くものを言っている。#1通り、学びて之を習う=習うは志士派は一貫して鳥が羽ばたくで実践です。(繰り返すが吉川さんら過去ほぼすべての儒家はこれを否定し、実践ではなくおさらいとされます、笑と涙)・・

これが、子貢の理解する、孔子の一貫だった。だがこれは歴史の裏面で(しかも見事に失敗したことで)必ずしも表立って言えることではない・・

そういう意味で、弟子に囲まれて、忠恕といってしまった?#81の曾子よりも、#381の子貢の沈黙が、孔子の一貫に近いとみる。孔子自身の沈黙も重い。


恕はもちろん孔子の一つの生き様行動原理だったがそれは孔子が子貢に言った時の一貫ではない、という確信は子貢にはある。そんなパーソナルな心得ではない・・。

この辺の(志士派)孔子を最も知り分かっていたいたのは、子貢とおそらく顔回曾子など本当に知るところではない、そういう思いも子貢にはあるのでしょう。

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もう一つ、読み込んでおきましょう。

孔子の見方:人それぞれだが、孔子・子貢・曾子は一貫もって生きるタイプ。
論語を過不足なく信じるなら、孔子が一道や一貫を曾子と子貢のふたりに(だけ?)、参や、賜や、と親しく話しかけたのは、これまた重い、とみる。子貢がやはり孔門志士派の後継者、子貢を待ちかねたといって迎えその7日後に死んだ孔子。魯鈍は承知だが孔子がわが道と尋ねかけた曾子には孔門学窓派の後継者、という孔子なりの直感はあったのかもしれない。むしろ、そこに孔子の言の意味を見出だすべきかもしれません。

⇒なお、

孔子本人は、子貢以上に志士派で理想社会のこの世での実現が一貫でしょう。
学=習=実践、は悦(楽)しいとまでいった。晩年獲麟前後には尋常ならず嘆いた。忠恕が為らないからといって人はあんな嘆き方はできない。ここはかなり確実、と思います。

子貢の方は孔子の一貫を継承した。しかし為らなかった。・・そして斉(や陶)で晩年は金儲けに徹した、3度儲けて2度ばら撒いた、ともいう。理想社会の実現と金儲けは異質だがその金を人にばら撒いたというなら、子貢なりの一貫、はあったのかもしれません。

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さらに一言。

曾子の見方:道の一貫=(忠)恕=己の欲せざるところ人に施すことなかれ
孔子呉王夫差を信長にみたてて天下布武と周朝的平和の回復に邁進したことを曾子は知っている、そしてすでに前481年には孔子は何かを見抜き獲麟と嘆いたことを知っている。子貢ら残る孔門志士派がめげずに夫差を支援し前475年ころには越王勾践に乗り換え、天下和平から諸侯絶対性回復に目標を下げ、そしてなお越王に裏切られた。前467年には流石の子貢も空しく斉に隠棲したことも、曾子は知っています。

孔子や子貢ら孔門志士派が大仰に天下を語り大論客大志士のように東奔西走していた間も、曾子ら孔門学窓派は、ずっと、魯の塾を預かり愚直に弟子を育成し続けていた。

孔子子貢がやったことは結局なんだったのか?身近にいえば衛公と魯公に国を喪わせ越に客死させただけ。

その後の歴史は衛でも魯でも有力大夫の専横はむしろ一層強まり公はなきに等しい存在となる。

それを曾子らは塾で見続けた、弟子達をあちこちに就職させつつ、それを感じ続けていた。孔子や子貢が利口ぶって懸命にやったことも結局は何の役にも立たなかった・・むしろ魯三桓の政治体制は強化された、記録にはないが曾子がみた当時の三桓の政治は小さい世界ながらも牽制しあって小康を保ったのかもしれない。
このなかで、中華全体の平和や理想的な統治体制ではなかったかもしれないが、狭くこじんまり安定的に管理され支配される民の姿や社会があった。それを曾子は見ている。ここに、曾子の極めて自閉的小市民的な世界が意味を持つ。間違いないように過ごし、親からもらった肉体を傷つけずに、死んでいけるように。

士と生まれ職をもって生きるがその任は重く果てしない、死ぬまで苦労は続く。戦々恐々、深い淵を見、薄氷を踏む思いで日々をすごし、わずかに音楽詩歌自然に安らぎを見出す。

そして死にいたることを義務や責任からの解放ととらえる。
・・そういう中で、人の道として一貫すべきは(忠)恕のみ。孔子は遂に明言しなかったが愚直魯鈍の愛弟子曾子はそう信じて生きてきた。曾子にとっては、一貫とは間違いなく(明晰な子貢の補足があって明確になるのだが)忠恕=恕=己の欲せざるところ人に施すことなかれ、であった

(つづく)

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1576.論語上論の曾子

1576.論語上論の曾子:2011/6/20(月) 午前 11:27作成分再掲。

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論語上論10篇から曾子をみましょう・・伝統的に知られる曾子のイメージそのものです。

世界遺産伝統儒教には心地いいものが多いのでしょう。・・これが魯本学窓派のもともとからの臭い、なのです。
下論斉本志士派とは全く違うのです。表と裏、明と暗、外向と内向、開放と自閉、そして(志士派流に言ってしまえば、笑)賢明と魯鈍、の違いです。

⇒そんな曾子魯学窓派が孔子の冒頭原学而篇にまで、曾子らの句を突っ込み、孔子の精神をグチャグチャにしはじめました。このことが、子貢ら斉志士派が斉本を纏め始め、曾子らを愚弄し始めた、直接の動機、だったろうことも既述しました・・

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曾子の句、まず学而篇第1の2句を繰り返します(記事1566)。曾子の弁です・・

吾、日に三度わが身を省みる。人のために謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習わざるを伝えしか。(#4、1の4)
終わりを慎みて遠きを追えば、民の徳、厚きに帰せん。(#9、1の9)
(通説的現代語訳:人の終わり(死)を慎んで送り先祖の祀りを欠かさずにすれば、民の徳も重厚なものとなっていくものだ。)

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曾子の句、泰伯篇第8より、5句

曾子、疾(やま)いあり。門弟子を召して曰く、予が足を啓(ひら)け、予が手を啓け。詩に云う、戦戦兢兢として、深き淵に臨むがごとく、薄き冰(こおり)を履(ふ)むごとくせよ、とあり。而今而後、われ免れしを知るかな、小子(しょうし)。(#187、8の3)
(通説的現代語訳:曾子が危篤、門弟を呼び集めていった。「自分の足や手を良く見てくれ、(変な傷などないな。)詩経は戦々恐々と深い淵に臨み薄氷を踏むようにせよ、という。その教えに従ってきたがいよいよ死ねる。そんな状況から(ようやく)解放される。さらば諸君。」)

曾子疾あり。孟敬子これを問う。曾子、言いて曰く、鳥のまさに死なんとするや、その鳴くこと哀(かな)し。人のまさに死なんとするや、その言うこと善し、とあり。君子の道に貴ぶところのもの三あり。容貌を動かして暴慢に遠ざかる。顔色を正して信に近づく。辞気を出して鄙倍(ひばい)に遠ざかる。?豆(へんとう)の事には、有司存す。 (#188,8の4)
(現代語訳:曾子危篤、孟敬子が見舞い。曾子が言った「鳥が死ぬ時は鳴き声は哀し、人が死ぬ時はその言うこと善し、という。(だから聞け)君子の道の貴ぶべきは三つ。容貌を(礼に従って)動かせば(自分のかつ他人の)暴力や傲慢を避けることができる。顔色を(礼に従い)正しくすれば(自分のかつ他人の)信(信用・約束)に近づく、言葉の雰囲気(=辞気)を(礼によって)出せば(自他共に)卑しく叛く(=鄙倍)事を避けられる。祭祀お供えごとについては専門の係りに任せればよい。」)

曾子曰く、能をもって不能に問い、多きをもって寡きに問う。有れどもなきがごとく、実(み)てるも虚しきがごとし。犯さるるも校(あらがわ)ず。昔はわが友、かつてここに従事したりき。(#189、8の5)
(現代語訳: 才能があっても才能のない人(の意見)を聞く、多数派(常識)でも少数派(異端)を聞く。充実していても謙虚に。文句喧嘩を吹っかけられても抗わない。昔、そういう(立派な)友達がいたものだ。)

⇒その友達とは顔回だろう、と古来通説。

曾子曰く、もって六尺の孤(こ)を託すべく、もって百里の命(めい)を寄すべし。大節に臨んで奪うべからざるなり。君子人(くんしじん)か、君子人なり。(#190、8の6)
(現代語訳:6尺(春秋尺だから22.5cm、135cm程度)の(君主の)孤児を託せて、百里(方百里か戸百里か=いずれにせよ小国一国)の民(政治)を預けうる。節操は堅い。そういう人がいれば君子人か、そうだろう。)

曾子曰く、士はもって弘毅(こうき)ならざるべからず。任、重くして道遠し。仁、もって己が任となす。また重からずや。死してのち已む。また遠からずや。(#191、8の7)
(現代語訳:士は弘毅たれ、任は重く果てない、仁を任としその重さを自覚せよ。死してようやく解放される、果てないものだ。)

⇒吉川さんは曾子ではこれが「最も優れる」と。吉川さんは士は広く教養ある人間と解していいというが、やはり、原義通り、大夫の下の「士」と読むのが誠実、でしょう。

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伝統儒教的にはうなずけるものばかりなのでしょう?#191で吉川さんご指摘どおり、#191が比較的マシで、あとは通俗プロトタイプでしょう。

⇒・・ですが、

もう一つ、読み込んでやらねば曾子が可哀想なのは・・春秋戦乱の私利私欲下克上の当時は、#191も一般論つまり諸侯大夫向けのメッセージなら逆に勇気あり過ぎの発言、です。が、曾子はそこまで行かない。むしろ、志士派いうとおり、曾子のことばの多くは、当時でも戦々恐々の愚直魯鈍、と聞こえたでしょう。

#189の「能をもって不能に問い、多きをもって寡きに問う」などもむしろ自分が不能、自分が少数派と自覚している、とさえ見えます。

だから、#191も安易に一般化して読んでは無責任・あくまで体制下にある士(官僚や兵士)へのメッセージと厳しく読むことで曾子の個性が分かります。そして、孔子や子貢のように天下国家を語らず、自ら戦々恐々として生きたらしい曾子というひとの愚直魯鈍の深みが分かります。

漢帝国体制以降吉川さんにいたるまで、曾子の句は体制維持身分社会では常識で平凡に見えるのでしょうが、発言当時は士たるものが戦々兢々魯鈍な弱者であることを認めること(そうでもあるでしょ?)は、尋常ではない勇気ある発言だった、のではないかとも思うのです。

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そういう目で曾子を見れた一人が、孔子だった。孔子が一貫を説いたのは、論語による限り、子貢以外では曾子だけです。
その句です。論語でも陰の薄い曾子ですが、
里仁篇第4の句です。これが最後、以上で論語曾子連句はすべて(のはず)です。子曰、參乎、吾道一以貫之。曾子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣。(#81、4の15)
(読み下し)

子曰く、参(しん)や、吾が道は一(いつ)以て之を貫く。曾子曰く、唯(い)。子、出ず。門人問いて曰く、何(なん)の謂(い)いぞや。曾子曰く、夫子(ふうし)の道は、忠恕(ちゅうじょ)のみ。

(現代語訳)

孔子曾子にだけ呼びかけて「わが道は一貫だ」。曾子「分かっています」。孔子が去り門人達があつまって「どういうことか?」。曾子孔子先生の道は忠恕のみ」。

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さてさて、これに関連して、次の課題です。極めて大事なところなのですが・・斉本ではこれに対抗して、子貢を持ち出し、この曾子の発言や理解をまたまた否定している、と読みます。

⇒吉川さん流に言うなら、この#81が曾子の一番いいせりふでしょう。・・曾子は有名な割りに論語に魅力ある文章は少なく、明晰で弁も立つ弟子が多い中では、きっと表現力なしの口下手・戦々恐々・愚直・魯鈍が印象的・・子貢辺りとはケミストリが合わなかったでしょう。それでも、琴を鳴らしたり自然と親しんだり弟子達に優しかったり、自然道家的な温かみのあった人のような気がします。

⇒・・ですが、斉本は(文章の)いいところを曾子くんだりもっていかれるのは絶対イヤ、といわんばかり。・・斉本は徹底して曾子をタタキタイ・否定したい、らしい。子供の喧嘩みたいで困ったことですが、そうとしか見えないのです(笑)。

 

(過去2千年もあってこの業界の人はなぜ「こんな風にも」(「にも」ですよ)読まないのか、信じられないのです。何人もいる書き手の心情の機微をまるで見ていない。・・フツーならそんな読み方はありえない!許されません!・・少なくともその限りで儒教は当然、否儒学も、独善扁平の「宗教」です。)


(つづく)

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1575.論語下論の曾子 (下)

1575.論語下論の曾子 (下) :2011/6/19(日) 午前 11:27作成分再掲。

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論語下論(斉・孔門志士系)は曾子に対して徹底して皮肉で批判的です。

論語下論では「魯の曾子=魯(アホ)」ということが分かってもらえば結構・それで尽きている、という印象で、これ以下は曾子については真っ当な引用はない(当たり前です、アホの言うことなど聞きたくもない!、笑)のです。
それでも、念には念を注意しながら下論の曾子を確認しておきましょう。バカにし小間使い扱いしていることが本当に見て取れるのです。

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曾子は「魯」(アホ)以外で、曾子の句はまず憲問第14に一本;ですが、古注と新注が違う、大変読みにくい句、です。
#359(14の27)=#198(8の14)の

子曰。不在其位、不謀其政。=その位にあらざればその政を謀らず。
#360(14の28)の

曾子曰。君子思不出其位。=君子の思いはその位を出でず。
まず吉川さんの注から(要約文責rac)。

「古注系統の本は#359と#360を(続く)一句とし、新注は#360を別句とする。

#359は泰伯第8にも全く同じ#198があり、新注によれば単純な重出である。

古注によれば、孔子の#198を曾子が演繹したもの。

ところで、#360は易の艮(ごん、うしとら)の卦の象伝(しょうでん)にみえる。孔子易経につけた注釈とされる。

新注では曾子がそれを引いた(だけ)なので別に記録したとする。ただし古注では易との関係を言わない。」


どう読まれるか?⇒
(1)まず句の意味自体は難しくはない・・です。

(通説的現代語訳)孔子は言った「地位と職務は相即したものでその地位にいない限り、その職務をとやかく考えない、おせっかいしない。」(吉川さん訳)曾子は言った「君子は地位を出て(身分不相応なことは)考えない。」(宮崎さん訳、吉川さんにはない)


(2)問題は、古注のように1句か、新注のように2句か=これはつながるのか?同じことをいっているのか?並べる意図はなにか?

rac的には、#359と#360は同じことをいっているとも吉川さんのいう演繹とも読めないのです。

孔子の#359=#198は君子というよりも、士大夫(官僚)か組織人のマナーです;孔子はそういう礼儀のつもりで言っている。・・君子はもう少し先、高いところにいる。#360の曾子は、地位を出ては考えない、しかもそれが君子、とまでいった。孔子は地位を出るとか越えるとか身分不相応とか、まして君子、など一言も言っていない。職務や地位や職制があるから尊重せよ、邪魔するな、それが組織の安定、といっているだけ。・・微妙だが全然違う、と思うのです。


②古注通り、#359と#360が一本なら、演繹というより、孔子曾子がいかに違うかを言いたくてこれをもってきた、とracはみておきたい。

孔門志士派は民間塾徒だが君子としての自負の強い人々、浪人であるにもかかわらず天下国家政治をいつも考えていた。孔子も子貢もそうです。ネットワーク型の人々(朋)だが体制上下的組織人、ではない。地位がないから分不相応なことを考えるな、それが君子、といわれては、孔門志士派の全面否定です。(魯で塾を継承し弟子を教えている)オタクの曾子孔子先生の言っていることを全く理解していなかった、アホ(魯)の一例として持ってきている、と読みます。

新注の立場も、この2句は同じことを言っていない、とみて分けたのでしょう。


③吉川さん指摘どおり、易の象に「君子以思不出其位」とあり「以」の有無はあるがまあ同文です。・・これはどう見ればいいのか?

「象」の文章だから古くて、孔子曾子以前の可能性がある、孔子が書いたという伝承もある・・だとしたら、曾子剽窃し自分の名で語ったことになる。ですが、いくらアホの曾子でもそんなことはしなかろうから、むしろ歴史事実としては曾子の句を易の側が援用した、と読む。・・ただし、艮(ごん、うしとら)=止・山々が塞ぐ・その身を獲ず=日本では鬼門、で易の世界でもあまり良い意味ではない。・・孔子の#359とは違う世界と易でも理解した、ということ。
⇒帝国安定身分秩序世界になって、#359と#360が似たものとか演繹とかみなされることは理解できるが、孔子から子貢曾子の時代にあっては、曾子の理解が如何に無批判でアンチョコな組織身分固定的であるか(孔門志士派は、諸侯のために私利私欲の大夫クラスの専横を排する、あるいは周朝秩序回復の天下和平を図る、その秩序観はあくまで批判的で天道志向です)を、比較説明するための句であった、つまり、曾子はやはり魯(血の巡りの悪いヤツ)といっている、とみます。

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現伝論語下論子張第19に、曾子曰く、が3本あります。
並べます。

曾子曰く、堂堂たるかな、張(=子張)や、与(とも)に並んで仁を為し難し。(#487、19の16)
(現代語訳)曾子はいった「子張は堂々たる者だ、しかし、一緒に仁をなすことはできない(男だ)」と。
曾子曰く、吾は諸(これ)を夫子(ふうし=孔子)に聞く。人、未だ自ら致す者有らざるなり、必ずや親の喪か、と。(#488、19の17)
(現代語訳)曾子は言った「孔子先生はこういっていた、ひとはなかなか全身全霊でものごとはできないものだ、あるとすれば親が死んだときの嘆きくらいだ」と。
曾子曰く、吾は諸(これ)を夫子(ふうし=孔子)に聞く。孟荘子の孝や、其の他は能くすべきなり。その父の臣と父の政とを改めざるは、これ能(よ)くし難(がた)きなり、と。(#489,19の18)
(現代語訳)曾子は言った「孔子先生はこういっていた、孟荘子の孝行は有名だがたいていのことは真似できる、が、父親の家臣と政治をそのまま継続したことは真似できないことだ。」と。
⇒子張篇も弟子たちの句集=スナップ写真集ですが、曾子有子子貢らのもう一世代あとの、孔門学窓派内の子夏子游子張の拮抗(子張が塾をついで?、子夏は西の魏へ、子游は南方江南へ、去る)時の記録の残渣、でもあるとみます。

⇒で、#487は、子張はダメと子游がいっている(#486)次の句で、魯の孫弟子たちを意識して、オタクたちのボスの曾子先生もやはり子張はダメ、といっていたよ、と主張したいだけ。・・曾子は利用されているだけ。

⇒#488#489の曾子孔子の句の単なるメッセンジャーボーイ。内容はいかにも曾子らしいが、・・なんのための句か?上の象も気にはなりやはり曾子は自分の言葉と弟子に教えてでもしていたのか?それは名言だがもともとは孔子の句なのだよ、と主張しているようにもみえます。

いずれも、曾子は魯鈍で斉・志士派とは全く違う考え方とし、もともとは見事なほどにバカにし皮肉や批判を並べていた(らしい)ことが窺えます。これが下論=原斉本=オリジナルは孔門志士派の立場、の一貫した曾子評、とみます。
(つづく)

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1574.論語下論の曾子論

1574.論語下論の曾子論 :2011/6/18(土) 午前 9:06作成分再掲。

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次は曾子です。曾子は、今につながる孔孟儒教孔子孟子をつなぐキーマン。

孔門学窓派の中では、有子の礼法客観派に対し、曾子は忠恕内面派のドン。

孔子の後継として姿振る舞いが似ているからと有子(司馬遷は43歳の年少と)を推した子夏・子游・子張(いずれも孔子の陳蔡南方同行組みで孔子より40歳以上年少)らに反対したのも曾子司馬遷孔子より46歳若いと。なら子夏子游子張と同年輩。但し陳蔡南方には同行していない。なお本記事一番下ご参照)。

漢初に高く評価されその後も儒教のひとつの柱「孝経」をまとめたのも、曾子とされます。現伝孔孟儒教のまさに保守本流の最重要人物の一人、です。


しかし、ここで展開中の、論語上論10篇(=魯本系・孔門学窓派)と論語下論10巻(=斉系・孔門志士派)を分けてみてみようとする立場からは、とんでもないこと、になるのです。まず斉系・志士派からすると「素直に読む」限り「曾子は魯(鈍)」と極度のマイナス評価、要するにアホの代表、なのです。下論・斉本の一番最初の動機は他でもないこの一点にあったのかもしれない、と思うほどです。・・魯の孔門を仕切っているあいつは文字通りアホ(魯)といいたかっただけ?!

現伝論語下論10篇のなかでも最も印象的な句ですが、まさに先進篇にあります。
柴也愚。參也魯。師也辟。由也喭。(#270、11-17)
(読み下し)

柴(さい)や愚(ぐ)、参(しん)や魯(ろ)、師(し)や辟(へき)、由(ゆう)や喭(がん)なり。

(宮崎さん訳)

高柴(子羔)は馬鹿正直、曾参(曾子)は血の巡りが鈍い、?孫師(子張)は見栄ぼう、仲由(子路)はきめが荒いぞ。

(吉川さん訳、rac要約文責)

子羔(しこう)は愚直、曾子は魯鈍・のろま、子張は奇矯・誇張・僻、子路は行儀が悪く・無作法・はったり。
⇒子羔は孔子より30歳年少、子路の弟弟子で子路推薦で季氏支配地の費の宰(長官)になる、孔子は子羔の学は不十分で愚とおもっているから反対するが学より実務と子路は押し切ったと論語(#277)にある。

⇒子張は陳出身・孔子より48歳年少・陳蔡時代は小間使い・過ぎたる・仁に足りず・・。

⇒さてさて。
朱子(呉氏と)や吉川さんはちゃんと指摘されるが、この句でもうひとつ大事なことは「子曰」がないこと・・すなわち、論語は生真面目なほどに孔子の言葉とわかりきっていても必ず「子曰」をつけるが、ここには「ない」、のです。

⇒吉川さんは、この点を指摘の上で、この直後の句#271「子曰。回也其庶乎屢空。賜不受命、而貨殖焉、億則屢中。」と一体なので、やはり孔子の言葉である;そして顔回のそれ庶(近)しは上記4人の欠点もなく顔回は(完全な人物に)近い、但し貧乏、と解される、と。=二つの不審を一挙に解決されます。

・・しかしこれは「子曰」がないことを気にされての強弁で、通説は、このまま顔回は完全に近いと読んでしまう、あるいは宮崎さんは「庶乎。屢空。」と切り、いつも空っけつに近いな、と読まれる。いずれにせよ、二句説です。

⇒確かに#270は「名」の呼びかけと「きつい」内容でいかにも「孔子らしい」句と疑問なく信じてしまうのですが、この句に「子曰」がないのは吉川さんご指摘どおりかなり深刻、と思います。


⇒・・で、rac的には、「述而不作」(#148)は論語でも絶対のルールと信じないとすべて読めなくなるので例外は1件たりと認めたくないのだが・・ここは「子貢のでっち上げ」=このステートメント孔子も絶対そう思っていたとの確信犯、それでも「子曰」とまではさすがの子貢も書けなかったのだ、という可能性、も留保します。

⇒もちろん孔子の弁ならそれでよく?(事情や気持ちや読みはどうあれ)孔子曾子をアホ、と(一度は)言っている、ということなのです。

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⇒伝統外れ非常識の変なことを書き続けるとますます分からなくなると思いますが、ついでに気になることなので、ここにメモっておきます。先進篇でしかも最後の句です。=曾子のお父さんという人が出てくる、しかも論語でもここ1箇所にだけ登場するのです。

子路。曾晳。冉有。公西華。侍坐。子曰。以吾一日長云々(#278、11-25)の論語中の最長句についてです。
(要旨、吉川さん訳の要約文責rac

塾が終わってゆっくりした雰囲気の中で子路・曾晳・冉有・公西華に日ごろ脾肉をかこっている諸君に、抱負を語ってもらおう、と孔子

子路は、魯クラスの困難な国を治め3年で勇猛な国に生まれ変わらせたい、冉有は一回り小さな国で民を満足させたい・礼楽のごときは君子(専門家)に任せたい、公西華は宗廟や外交の小相(補佐官)になりたい、と。

その間、曾晳は瑟(大琴)を静かに引いていたが促されたのでことりと止めて、みなさんとは違うのでと遠慮がち、なお孔子に促されて、晩春のころ冠者5,6人と童子6,7人と川遊びし丘歩きし詠じて帰る、そんな生活がいい、と。孔子は大きなため息をして自分も曾晳に賛成だな、と。

三人が帰り曾晳が後れた、孔子にどう思われましたかと聞いた。子路を笑ったのは礼が大事と教えているのにいまだに勇猛の国というから、いすれにしても三人とも表現は違うが(公西華さえ彼の上に立つ上役などありえず)現実に政治をやりたいということだな、と。
⇒「孔子の豊かな暖かい性格を現す有名な章」(吉川さん)と、また「孔子70歳なら、子路61歳・曾晳同年輩・冉有41歳・公西華28歳」頃か、とも・・。大変含み論点の多い文章で、これをどう読解するかで逆にその読者の人となりや論語理解度、が分かるような句、でもあります。

⇒目下の文脈でrac的には以下。
(なお、ひととなりは良くなく論語もシロートですが、笑)

要はこの曾晳が忠恕派ドンの曾子そのもの?
①この曾晳は曾子の父とされていますが、実はこれこそ「曾子」でないか。

そうならば、年齢的・雰囲気的・孝悌的・孔子後継候補者的にも「あり」だとみえるのです。

平たく言えば「この」曾子なら自然道教的な趣で、礼法客観派の有子にNOをいうのも分かるし、また逆に、子夏子游らが曾子ではなく有子を推すのも分かる、のです。そして子貢らバリバリの志士派は魯鈍と言い切るのもよく理解できるのです。
そもそもこの句の日本伝統読みはいくつも間違っています。

②問題の第一は、孔子のため息(=喟然歎;喟=き=なげく、らしい)をどうみるかですが、曾晳に孔子は歎息し同意している・仲間になりたい、と通説は訳します。

③この点、朱子集注は正確で「曾晳の言は人のためでなく自分のみのため・・(だけど)孔子は歎息して深く許した」とします。「与(くみ)」するは吉川さんさえ「賛成」と不注意にも訳されていますが、そうではない、朱子のいうとおり「深く許した」だけ=孔子も年取っただけ、なのです。

④もう一点。子路の武勇で治めるとのニュアンスには、礼に違い謙譲ではないと孔子は笑いましたが、冉有の「礼楽の如きは君子を俟たん」には孔子は黙して同意しているのです。礼楽の如きは現実政治(民を安んず)には優先はしない。・・ここを吉川さんは「礼楽はさらに有能な君子がそのことに当たられるを俟つ」と訳され礼楽はさらに高級なことで冉有の言を謙譲の美徳のように解される、ここも間違いでしょう。そんないい加減な孔子ではありません。

⑤つまり、学窓より現実政治貢献だ、礼楽より民だ、自然道教的曾晳主張は孔子は許しただけ(子路には笑っただけと同じです、むしろ手がつけられないバカということです。・・自然道教的発言を日本的感覚で理解してはいけない。)で推奨しているわけではない、の三点からして、これを先進篇の最後に論語最長文でもって来たのは、やはり、斉系=志士派の意図なのです。
⑥曾晳は実在したかもしれない、否定はしない。しかし、この曾晳こそ曾子という人だった、原文は曾子だった可能性もある・・そのほうが全体ずっとすわりがいい。

論語曾子は孝行をいい親からもらった肉体を死ぬまで大事にする人、後の道学士めいたひとなので同門中に親がいたなら一言ありそうなものですが、親曾晳のことは論語曾子は一度も言っていない。これも不可解です。・・曾子の親や子を言い出すのは、曾子や子貢から百年後の「孟子」が始まり、のようです。(孟子離婁章句上19、盡心章句下36、そしてこれが「小学」などへ)

司馬遷の「仲尼(孔子)弟子列伝」でも、孝経ブームの当時曾子は有名人だったはずなのに「魯の武城のひと、孔子より46歳年少、孝経を著した」とだけ。司馬遷は相当調べたと思うが他と比べても曾子(曾参)の文字数は極端に少ない。論語の句も孟子も引用していない。もちろん魯(鈍)とも書かない。むしろ何かを感じて沈黙している、ともみえるのです。

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↑少し難しいでしょうか?

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なお、念のため、漢以降の儒教は(斉本を魯本が吸収合体して)止揚成長していきますから(日本では日本化も加わり上記「曾晳」に「不注意にも賛成」してしまうほど甘甘になるけど)、例えば
曾子の魯鈍が誠実一途の孝となり、子路の粗暴が剛直となって義に勇んだことなど・・その欠けたところを学問と修養で円熟さを加えると、美しい特徴となって光を発揮する」(吉田さん本、p245)などと説明されます。=もちろんこれはこれで結構なのです、が、上記は論語成立初期の歴史的思想史的展開の一段階として、フツーの儒教的とは違う観点と目的での、議論です。ご注意!
(つづく)

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1573.論語上論より子貢論

1573.論語上論より子貢論:2011/6/17(金) 午後 3:21作成分再掲。

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承前。論語上論=ほぼ魯本で孔門学窓派、から、子貢関連の句を引用します。

既に紹介の現伝学而篇の中の2篇は、斉本・孔門志士派の立場ですから、これを別にすると、頭から順に以下の通りです。

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為政篇第二から1句#29(2の13)
子貢、君子を問う。子曰く、先ずその言を行い、而る後に之に従う。

(通説的現代語訳)子貢が君子を質問。孔子「まず言葉通りに行って、然る後に言うのが君子だ。」
不言実行。言語のたつ子貢相手だから孔子はこういった。言行不一致あるいは有言不実行の部分が子貢にはあったのだろうと、通説も指摘します。
八佾(はちいつ)篇第三から1句#57(3の17)
子貢、告朔(こくさく)の餼羊(きよう)を去らんと欲す。子曰く、賜(し)や、なんじはその羊を愛(おし)む、われはその礼を愛(おし)む。

(現代語訳)子貢が一日の日のお供えの羊をやめようとした、孔子「子貢よ、お前はその羊を惜しむ(可哀想と思うのだろう)が、自分孔子はそうすることでその儀礼儀礼にならないことを惜しむ」
⇒羊を可哀想と思ったのか、もったいないと思ったのか、分かりませんが、一日(ついたち)の日には先祖他に儀式として羊を生贄にしたらしい。子貢はこれをやめてしまえ、と。孔子はそんなことより、けじめ・礼たる告朔の儀式が儀式にならない(ニセモノになる、やがて廃れるなど)こと、を心配すると。なお賜は子貢の名、孔子が親しく呼びかけている。

⇒明晰な合理主義者の子貢と儀式礼を重んじる孔子・・今日ならともかく、ですが、過去はどの時代でもけじめの儀式のかなめを否定するなど、子貢はちょっと変わった人、と感じるものなのでしょう。批判的にそう誘導しているのが魯本でしょう。


公冶長篇第五から4句#96(5の3)
子貢、問いて曰く、賜(し)やいかん。子曰く、女(なんじ)は器(き・うつわ)なり。曰く、なんの器ぞや。曰く、瑚璉(これん)なり。

(現代語訳)子貢は問うた「自分子貢をどう思うか」。孔子「お前は器だ」。子貢「何の器か」。孔子「瑚璉=宗廟にキビアワのご飯を盛る玉製の器だ」
⇒この前#28(2-12)には「子曰、君子不器。」(君子は器ならず=器械器具ではない、沢山の器具を使うのが本当の君子・王者という心、でしょう)とあります。ですから、器だ、といわれることは君子ではない、といわれたにも等しいと魯本の読者は思うでしょう。・・当然、孔子の言葉を熟知する子貢もそう思うでしょう。

⇒「器は反価値的・・につかわれるが、ここは子貢をほめた言葉であるに違いなく・・」(吉川さん)とおっしゃるが果たしてどうか。・・瑚璉とはほめ言葉なのだろうが、あくまで器としての話であり、器としてならいいものだ、の心でしょう・・孔子の真意は不明ですが、ストレートなほめ言葉では決してない。

⇒なお、過去儒家はおっしゃいませんが漢文漢字的には(子貢=)「賜=女器」と目に入り、やや愚弄したものを読者は見るのかも。

⇒また、以上3句はいずれも子貢の方から積極的に孔子に問いかけています・・まあ、図図しく自意識の強い人だなあ、いやだなあ、とフツーは感じます。魯本はそう誘導しているのでしょう。

 

⇒そして以下の顔回との比較です。これはさすがに子貢自身ではなく孔子が言いだしっぺです。
#101(5-8)
子、子貢に謂いて曰く、女(なんじ)と回(かい)といずれか愈(まさ)れる。対えて曰く、賜はなんぞあえて回を望まん。回は一を聞いてもって十を知る、賜は一を聞いてもって二を知るのみ。子曰く、しかざるなり。われ女(なんじ)とともにしかざるなり。

(現代語訳)孔子が子貢にいう「お前と顔回とどちらがまさるか」。子貢「顔回には及びもつかない、顔回は一を聞いて十を知る、自分は二を知るのみ」。孔子「そうではない、自分孔子もお前と同じで顔回には及ばない」。
朱子新注では、子貢が顔回に及ばないというのに孔子は与(くみ)する、とあり、孔子はもっと偉かった、孔子は子貢に同情も激励もしなかった、とします。朱子は厳しいです。

⇒子貢にしては珍しくしおらしい発言です。ですが孔子もここまで。・・で、子貢も孔子もこういうのだから、顔回はよほどの人だ、というイメージは強まります。
#104(5-11)
子貢曰く、われは人のこれをわれに加うるを欲せざるや、われもまたこれを人に加うるなからんと欲す。子曰く、賜や、なんじの及ぶところにあらざるなり。

(現代語訳)子貢は言った「自分子貢は、人が自分に圧迫を加える(あるいは自分より優れる)ことを欲さないし、自分が人に圧迫を加える(人より優れる)ことも欲さない」。孔子「おまえにはそんなことできないよ」。
⇒加の字は物理的精神的に暴力・圧力を加えること(吉川さん)と。優れる優れないの上下意識との説もあるが、

⇒子貢は弁論が立って自信家で、自然と人に圧迫感を与える人だった、とみます。この発言自体もまことにそんな子貢らしい。子貢を良く知る孔子からみれば、「子貢や、自分で人に圧迫感を与えないつもりでも人はそうは感じない、ひとはお前には圧迫感を感じ逃げ場がない、といつも感じているんだよ。そんなもの直そうたって直らないよ。」と読みます。

#105(5-12)
子貢曰く、夫子(ふうし)の文章は得て聞くべきなり。夫子の性(せい)と天道とを言うを得て聞くことは不可なりき。

(現代語訳)子貢は言った「孔子先生の文章はきちんと聞き従うといい。しかし、孔子の性と天道について(のお考え)はきちんとはわからないままだった」
⇒「孔子の学問は元来即物的で、抽象的でも思弁的でもなかった」という清朝学者はそういう意味でこの句を読む(吉川さん)、らしい。

⇒「性」は論語ではここ以外では「性は相近く習いは相遠し」(#436,17-2)があり、司馬遷孔子世家では「天道と性命」として孔子亡き後の子貢の後悔、としていました。

⇒諸家諸説言われるが難しく考えることはなく、「性」は生まれつきの性根あるいは生まれつき、「習」は孔子孔門志士派が使うときは修練実行実践、とracは読むので、「性は相近く習いは相遠し」=生まれつき(の性根や姿?)は似ていても修練実行(の結果)は違ってしまうもの。また、天道=中華和平と周朝秩序の復活の道そのもの、と読みます。子貢もそういう意味で使ったろうとながなが既述しました(記事1531前後)。それでいいように思うのですが・・。

⇒ただし、今説明中の文脈でいうなら、上論=魯本学窓系のこの句の採用意図は「子貢は孔子のことは何でも分かっていたように(読者の皆さんは)思っているかもしれないが、子貢だってこういって、孔子から遂に学べなかったことがあると自ら認めているよ」という魯派主張、です。

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⇒以上、上論の冒頭から取捨選択せずすべて順に、ピックアップしました。これ以降にも上論でまだ5~6本子貢からみの句はありますが、それらは打って変わって、癖のない素直で真っ当なやり取りになっています。

(冗談抜きにして、子貢句だけ取れば、子貢のマイナスイメージが強い順に並べたのかしら?とも見えるほどです、備忘。)

子貢は弁舌・多才・積極・明晰とされるが、そうでもないなあ、半面で、自己中で高慢で欠点や限界もいろいろあったんだなあ、孔子にいろいろ牽制され叱られているなあ、と感づかせる句はこの辺まで、です。・・下論=斉本志士派系ではイケテル子貢像なのに対し、以上上論=魯本学窓系ではさりげなくしかし明瞭に子貢の欠点・短所・限界を上手に引き出し描いています。・・決して偶然ではありません、下論(斉・志士派)と上論(魯・学窓派)の相互対抗・反目・批判合戦、です(笑)。・・こんなこと自明明白、とみえるのですが、伝統的でお堅い論語学者はまず言わない。自ら世界を狭くしている、残念です。

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対比のためにも、

次は逆に、学窓派のドン、曾子を見てみましょう。
(つづく)

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1572.論語下論による子貢論

1572.論語下論による子貢論 :2011/6/16(木) 午後 2:39作成分再掲。

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子貢がボス格だったろう、孔門志士派系=斉本系=下論の先進・顔淵篇のなかから、子貢関連の句をピックアップします。

⇒その前に、
現伝学而篇の子貢関連の2句は、孔門志士派の発想で(子貢自身が)加えた二句と見ましたのでその復唱から。記事1567
#10 (通説和訳)

子禽が子貢に聞いた「孔子先生は各国にいかれたが、必ず各国で政治に与った。自分からそうされたのでしょうか?」

子貢が答えた「先生は温・良・恭・倹・譲な方だった。だから自ずと政治にかかわることになった。先生の政治参画の場合は、他の人が自分から求めてそうするというのとは諸々違っていた。」
⇒おそらく、孔子は(孔門志士派は存在もせず)諸国遊説はしたが各国で受け入れられなかったのだというような学窓派のキャンペーンが行き渡り始めていたのでしょう、子貢は「とんでもない、孔子は諸国にいくだけで声がかかり自然に政治に関与した」と証言しています。


#15(通説和訳)

子貢「貧しいけどへつらうことなく、富んでもおごることがない、どうでしょう?」

孔子「それはそれでよい。だが、貧しいけどなお楽しみ、富んでなお礼儀正しい、こっちが上だな。」

子貢「詩経に切磋琢磨というのはこのことですか?」

孔子「子貢や、ようやくともに詩経を語れるな。撃てば響くだな。」
朱子も言うとおり、子貢自身は自分は金儲けして孔門に貢献しても驕らずなお礼儀正しいとの自負もあった、しかし孔子先生には「そんなことはどうということはない、貧しくとも道を追求しそれを楽しむ=自分はそうだ。子貢や、お前は楽しんでいるか」と、一本取られたなあ~です。・・こう読まねばこの句の本当の味(笑い)がわかったことにならない、です。

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先進篇第十一から、3句、です。
#266(11の12)

閔子、側に侍す、誾誾如たり。子路、行行如たり。冉有、子貢、侃侃如たり。子楽しむ。由のごとくんば、その死然を得ざらん。

(通説和訳)孔子のそばにいるときは、閔子騫は(上の大夫に対するように)中正行儀良く諌めるように、子路は行行(=遠慮なく剛強に)、冉有と子貢は(下の大夫に対するように)理屈だって強かった。孔子はその様子を楽しんだ、で子路は畳の上では死ねないのだろうな、と。
⇒4人の(4人とも孔門十哲=志士派=先進野人)違いを孔子は「楽」しんだ、といいます。ギンギンもカンカンも礼法の郷党篇で、孔子自らが各国朝廷で取った態度です。冉有と子貢は孔子を目下の大夫相手にする時のようであった、といっていますから、結構偉そうなのです(笑)。行行はやってもいい遠慮なく剛強自然に、やや無神経で、フツーの死に方は出来ないかな、と孔子子路への厳しい眼です。改めて古注新注各時代みましたがそれぞれの時代感覚で漢字そのもの意味とは少し違う印象、です。
#269(11の15)

子貢問う、師と商といずれか賢れる。子曰く、師や過ぎたり。商や及ばず。曰く、しからばすなわち師愈(まさ)れるか。子曰く、過ぎたるはなお及ばざるがごとし。

(通説和訳)子貢が問う「師(子張)と商(子夏)はいずれが賢いか」、孔子「子張は過ぎ、子夏は及ばず」。子貢「では子張がまさるか」。孔子「過ぎたりはなお及ばざるがごとし。」
⇒孔門子弟の誰をどう使うか、は孔子と子貢あたりが決めていたようにも見えます。子張も子夏も子貢より更に十数歳若いですから、こういう人物評を記録に残しても彼等に失礼にはならない。

⇒子張は陳出身で陳蔡時代は小間使いです、ですが論語の世界では大物です。子夏については鄭玄は晋の温国出身ともいい、対晋のメッセンジャーボーイでしたが、曾子らとは合わずまもなく孔門を外れ西方魏に向かい学者として大成したようです。・・なお、対呉のメッセンジャーボーイだった子游も同様で魯を離れ江南で学者として大成し江南夫子と呼ばれるようになるらしい、です。
#272(11の18)

子曰く、回やそれしばしば空しきに庶(ちか)し。賜は命を受けずして貨殖す、億すればすなわちしばしば中(あた)る。

(通説和訳)顔回は本当に貧乏だ。子貢は(天の、孔子の)命令もなしで金儲けした、その(相場の)予想はよく当たった。
顔回と子貢のもっとも顕著な違いでしょう。金儲けは孔子の指示でもなかった、自分勝手にやったこと、と証言しています。

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⇒子貢は堂々として客観的(に表現し)ながらも、嫌味でない程度に、自慢にもなっています。

⇒下論の、顔淵第十二から3句、続けます。
#286(12の7)

子貢、政を問う。子曰く、食を足らし、兵を足らし、民、之を信ず。 子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、この三者に於て何をか先にせん。曰く、兵を去らん。子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、この二者に於て何をか先にせん。曰く、食を去らん。古より皆死有り、民、信無くんば立たず。

(通説和訳)
子貢が政を問う。孔子「食を十分にし兵を十分にし民が政治を信用(約束どおりやってくれる)できることだ」。子貢「やむなく一つ捨てるとしたらいずれか」。孔子「兵だ」。子貢「やむなく次は」。孔子「食を捨てる。昔から人間は死ぬものだ。政治というものは、民の信用がなければ成り立たない」。
⇒政や仁などについては沢山のひとが孔子と会話しています。しかし、もっともレベルが高いのが子貢とのやり取りです。

⇒後の一部儒家が言うように、兵を否定などしない、むしろ最後に残る三つの一つという表現です、帝国安定期でなく春秋戦乱期の実感でしょう。すごいのは、兵の次に捨てるのは食という、人はどうせ死ぬから食は次に外す。政治とは民との約束・それを守ることだ、と言い切っている。・・まさに孔門志士派の気合でしょう(笑)。
#287(12の8)

棘子成(衛の大夫)曰く、君子は質(しつ)のみ。何ぞ文を以て為さん、と。子貢曰(いわ)く、惜しいかな、夫子の君子を説くや。駟も舌に及ばず。文は猶お質のごとく、質は猶お文のごときなり。虎豹(こひょう)の?(かく)は猶お犬羊(けんよう)の?(かく)のごとし。

(通説和訳)衛の大夫言う「君子は質(実質)のみ、文(文章や形式や飾り)はいらない」。子貢「惜しいな、あなたの君子を説くのは。四頭立て馬車も舌に負ける(軍も言葉に負ける、一度言うと馬車でも追いつけない、など)。文と質は切り離せない。虎豹の美しい皮も毛模様をとってなめし皮にしてしまえばその辺の犬羊と変わらないともいう」
⇒なんとも子貢らしいスナップ写真に見えます。

⇒惜しいかななどと大夫に偉そうに言うことはない、言葉がハデで難しい・・まあ多弁多能できらめく才気は出ています。・・ですが内容はあまりない、よくわからない。・・孔子ならもっとうまく言うでしょう。
#302(12の23)

子貢、友を問う。子曰く、忠告して善くこれを道(みちび)く。可(き)かざれば止(や)む。みずから辱(はずかし)めるなかれ。

rac訳)子貢、友を問う。孔子「忠告していい方向に導く、言って聞かねばそれ以上は止める。(相手を)罵り辱めるのはやめよ。」

⇒通説的には、「毋(=無)自辱焉」を「更に言ってこちらが辱められないないように」とする。原文も受身とは読めず、能動でよいと思いますが・・
⇒友についての論議のレベルは一転して高くない。むしろ、子貢は、すぐ上の#287通り、一言余計で惜しいかな、といってしまう。そんな人を馬鹿にするようなことまで言うな、と子貢相手だから、孔子は言っている。

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⇒最後の二つになると、子貢自らが選定した句とは考えにくい。子貢が自戒をこめてピックアップしたとすればたいしたものだが、むしろ、後世、子貢らしい才気・詭弁・高慢も出ていると見て採用した、ここは魯系の人のピックアップでもおかしくない。

⇒他の篇にはまだまだありますが、下論の先進と顔回の2篇からは、これで子貢はすべて(のはず)です。・・子貢は、まあ、「格好いい」、「結構いけてます」。

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さて、続いて、

上論から(公冶長篇など)から、子貢の句をみます。こちらは結構「きつい」です(笑い)。
(つづく)

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1571.さて論語をどう読むか

1571.論語をどう読むか:2011/6/16(木) 午前 11:31作成分再掲。

QT

 毎日少しずつ書くブログであり、繰り返しも厭わず、あっちへ行ったりこっちへ来たり、手探りで楽しみながら、孔子論語を読んできています。

一度整理し、これからどう論語を読むか、方法方針を決めます。

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まずここまでの整理。


(1)論語の各句(章)はそれぞれ相手があって、ある状況下、で語られたもので、抽象的な言辞は案外少ない。だが、相手はある程度分かるけど、状況はよく分からないものが殆ど。むしろ意図的に消された、とみる。そうして、より一般的により立派に、期待されあるべき「儒教的」に読まれてきている。これが「論語」、そしてそんな理解が通説化している。これはこれでひとつの立派な儒教的世界。否定するつもりは全くない、世界遺産のひとつ。

・・だが、やはりもともとの状況を知りたいと思って、・・孔子の実際の行動履歴を辿った。主に司馬遷と春秋左伝によった。その結果、その後の通説的儒教的とはかなり違う「志士的孔子孔門像が発掘復元」された。・・多くの儒家は信じないと思うが、司馬遷と左伝はかなり明確にそう語っている。

(2)論語の上論10篇と下論10篇は性格が違うという日本伊藤仁斎流、そして魯斉両本説の武内義雄さんら、のさらに延長でいろいろ読み考えている。(1)とあわせ、孔門学窓派(曾子有子ら)と孔門志士派(子貢ら)の二つの流れがあって、それぞれ魯本と斉本のオリジナルになった、とみる。両者の立場や主張は当初は相当違っていた。


(3)さて、現伝学而篇第一と郷党篇第十がそれぞれオリジナルは孔子の根本精神と礼法マニュアルで、この2篇が「原論語」、とみた。うち学而のオリジナルは、孔子の句だけの簡単なもので、孔子塾に掲げてあったものというイメージで、学窓派にも志士派にも通用するものだった。


(4)学窓派=魯派は、座学礼法実技中心の人たちだから「原論語」の簡潔さに飽き足らず、現伝の為政篇第二以下、教科書=原魯本論語、を厚くしていった。さらにあろうことか、看板学而篇に曾子や有子の句を加えて学窓派色=後の主流の儒教色の強いもの、とした。で、現伝上論10篇のオリジナル=ほぼ原魯本=学而・郷党・為政・・・子罕の10篇で、ある時期には原魯本論語として完結、していた。

(5)志士派=斉派、は本来は、理想を求めて現実変革に関心がある人たちだから、書物を作ることに初めはあまり関心がなかった。「原論語」2篇で十分と考えていた。特に原学而篇は、志士派にこそぴったりするものだったから、十分だった。

(6)しかし、人も世代も時代も変わり、魯の儒家たちとの対抗上もあって、元志士派斉の儒家も座学的礼法実技的になっていった。(志士派の現実革新路線を汲んでいくのは墨家、弟子や朋を大事にする個人主義的傾向を引くのが楊子ら、に継承され、その分、斉の儒家も魯の儒家に近づき座学的礼法実技的になっていく)・・孟子のころには魯斉の儒家の融合が始まり、この時点で、斉儒家の教科書は、現伝学而篇・現伝郷党篇、そのあとは、現伝先進篇以下の下論が続き、8~12篇だった。これが原斉本論語で、今の下論10篇の原型。

(7)戦国時代にはそれぞれに追加削除等もあり細かな多様化も進んだ。だが焚書漢初には魯斉らの相互乗り入れ合体がさらに進み、魯本・斉本・孔家から出たとか言う古論語・河間論語などあり既にどれも20篇前後でその差はあまりなくなっていた。司馬遷あたりはこれらを見た。

司馬遷と同時代、秦漢帝国国教化、董仲舒前後にはいわゆる五経の整備は進むが、論語はこれに一つ遅れ、後漢鄭玄あたりにまでずれ込む。民間孔門もあったが国教化で帝国儒官たちがリードするから、志士派色は徹底的に排除され客観状況が見えるト書きなども除かれ名句羅列型で良く分からない、漢帝国体制管理志向=まあ元を辿れば魯の孔門学窓派色、が圧倒し、魯本・斉本・古論語を取捨合冊して現伝論語20篇、になった。これが今の論語

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これからどう論語を読むか


1)孔子も認知していたろう冒頭原学而篇の復元はできた。曾子有子の字句を加えた原魯本学而篇、更にあるいは別途子貢の句のある原斉本学而篇も復元できた。・・郷党篇が続き、・・原斉本ではこのあとに先進篇が続いていた、とみた。つなぎの二句(#254と#255)が見事に斉本系の手による愉快なジョイント(継ぎ手)とみるからです(もちろん現伝20篇の上下のつなぎでもある)(前記事前々記事)

2)・・孔子が強調する、朋=弟子や知人、の話につながっていた、これが原斉本の特徴です。対比して、原魯本では「原論語」冒頭2篇のあとには為政・八佾(はちいつ)など政治の根幹や儀式の話に入る。

3)魯本系の読み=現伝論語の伝統儒教的読み方で、これはracくんだりが一言も書くことはなく、世界遺産で沢山ある。そうではなく、冒頭から、すぐに朋(弟子や友人)の話につないでいたらしい、原斉本の流れで、今回、論語を読んでみたい。

4)もちろんそこにも政治・儀礼・忠義礼智信等等の話もあるが、ここは学而篇冒頭の「有朋自遠方來、不亦樂乎」の世界そのもので、原斉本=原孔子孔門志士派には根幹中の根幹、理想に燃え現実革命のための人的ネットワークそのもののお話・・これをまずは、

「朋(弟子や知人)たちのスナップ写真集」という観点、で読んでみたい。子貢・曾子・顔淵・子夏・子張など幾人かに順にスポットを当て、その個性や考え方、孔子との交流という視座で読み進めてみたい。


5)すなわち子貢なら子貢についての句を、下論(斉系)先進・顔淵等でみ、クロスチェックの意味で上論(魯系)公冶長・雍也など、で見比べたい、
いわばここも新しい論語の読み方のご提案です。


⇒うまく読めるかどうか、分かりません。納得説得的でなく面白くなければやめちゃえばいいこと。まずは子貢から、やってみましょう。(笑)

(つづく)

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